プロローグ

人生というのは、自分のものであっても、他人のものであっても、庭みたいなものなんじゃないかな、というのが、最近の僕がいちばんしっくりきている感覚です。本書のなかには、いろんな話を書いていくつもりですが、いちばん下のところで僕が支えにしているのは、たぶんこの感覚です。だから、最初に書いておきます。

庭は、確かに自分のものです。所有権で言えば、たしかに自分のものです。それでも、自分の思い通りに制御したり、最適化したりすることは、できません。種を蒔いて、水をやって、土を耕して、雑草を抜いて、剪定して、病気にならないように手をかけることは、できます。これらの作業をサボらずに積み重ねれば、庭は、長期的には確かに豊かになっていきます。それでも、雨が降る量や、日が当たる時間、霜が来る日や台風が来る日は、こちらが決められません。隣の畑から虫が飛んでくることもありますし、思いがけず鳥が種を運んでくることもあります。今年咲くと思っていた花が咲かない年がありますし、咲かないと思っていたものが勝手に咲く年もあります。これらは全部、庭主の意志とは無関係に起きます。

庭主にできるのは、世話をすることだけ、です。コントロールではなく、世話。世話の質は、長い目で見ると、庭の状態を確実に変えていきます。世話の積み重ねが、5年後、10年後の庭の輪郭を、ほぼ決めると言ってもいいくらいです。それでも、ある特定の日に、特定の花が咲くかどうかは、庭主には決められない。庭は、半分は自分が決めて、半分は土と季節と偶然が決める、というふうに動きます。

人生もこれに近い、というのが、僕がここ数年、いろんな場面で確かめてきた感覚です。自分の身体、自分の習慣、自分の選択、自分が向ける時間、自分がかける手間。これらは確かに自分のものです。それでも、思い通りには動きません。気候があります。体調があります。家庭の事情があります。世の中の変化があります。突然の病気もあれば、突然の出会いもあります。これらは、自分の側からはほぼコントロールできません。それでも、世話はできるし、手をかけることもできます。手のかけ方の積み重ねが、5年後、10年後の自分の輪郭を、確実にずらしていきます。咲かない花を咲かせる魔法はないですが、咲きやすい土を作っておくことはできる、というイメージが、いちばん近いかもしれません。

他人の人生についても、同じだと感じています。教員として学生さんを見ていて、いちばん気をつけたいのは、「学生さんの庭は学生さんのものだ」という線を踏み越えないことです。僕が入っていって、その庭を最適化することは、できません。するべきでもありません。隣の庭主として、種を分け合ったり、世話の仕方を話し合ったり、たまに「こっちの花、綺麗に咲きましたね」と言い合ったりすることは、できます。本書がやっていることは、たぶんそれに近いです。あなたの庭にこれを植えなさい、こう剪定しなさい、と書く本ではありません。隣の庭主として、僕がいま自分の庭でやっている作業の話を、ぼそぼそとしている本、というほうが近いです。

本書のなかでは、これから、「自分を設計する」「仕組みを組む」「複利の方向を選ぶ」「自分を測る装置を持つ」みたいな、わりと能動的な言葉が、いくつも出てきます。これは庭で言うと、庭の構造を作るほうの話に近いです。土を整えたり、棚を組んだり、水路を引いたり、という作業に当たります。読みながら、ちょっとだけ気をつけてもらえると嬉しいのは、これらの言葉だけで人生を扱おうとすると、半分しか見えなくなる、ということです。残り半分は、設計の言葉では捉えられない、世話の側です。設計だけで考えていると、思い通りに動かなかったときに、自分を責める回路に入りやすくなります。庭の感覚を一緒に持っていると、思い通りに動かなかったときも、「庭がそういう動きをしている」というだけ、として受け取れます。今年は霜が早かったね、とか、思わぬところに鳥が来たね、とか、そういう種類のこととして。本書のなかで「設計」っぽい話が出てきたときは、その横に、いつでも「世話」の感覚を一緒に置いて読んでもらえると、ちょうどいい温度になるんじゃないかな、と思っています。

それから、もうひとつ。本書を書きながら、いっしょに頭の片隅に置いていた言葉を、ここに書いておきます。

「『世界』を作るのは私である」。

こんな言葉があります。とある哲学書のなかにあった、ひとつの一節です。最初に読んだとき、正直、意味がよく分かりませんでした。いまでも完全には分かっていない気がします。それでも、自分の経験を当てはめてみると、いくつかの場面で、この言葉がしっくりくることがあるんです。庭の比喩と、この一節は、一見すると逆を向いているように見えます。庭は思い通りにならない、と言いつつ、世界は私が作っている、とも言う。このふたつは、矛盾するように聞こえるかもしれません。実は両方とも本当だ、というのが、僕がいまのところ手元で扱っている読み方です。本書を書きながら、その「両方とも本当」の手触りを、ちょっとずつ言葉にしてみよう、というつもりでいます。最終章で、もう一度この一節に戻ってきます。

この本(と言ってもウェブで読めるドキュメントなのですが)は、僕が学生のころに、どんな考え方で大学時代を乗り越えたのか、あるいはいま振り返ってみると、どんな考え方で乗り越えるべきだったのかを、誰かのヒントになればいいなと思って、記しておくつもりで書いています。書いている人間が立派だから書いているわけでは、ぜんぜんありません。むしろ、最初に書いておかないとフェアじゃないと思うので書きますが、僕自身は、大学の授業をまともに受けていませんでした。

僕は古池謙人(こいけ けんと)といいます。いまは神奈川大学で大学教員(助教というポジションです)をしています。専門は、人がどうやって学ぶかを工学的に研究する分野で、もう少し具体的に書くと、Intelligent Tutoring System(インテリジェント・チュータリング・システム、略して ITS)と呼ばれる、コンピュータが学習者を支援する仕組みを設計する仕事です。ざっくり言えば、「人の学び」が仕事です。それなのに、僕自身の経歴は、お勉強の評価軸の上では、わりと下のほうを行ったり来たりしてきました。小学校はわりと休みがちで、中学校はほぼ不登校。高校は工業高校(電気・情報デザイン科)で、卒業時点で 130 日くらい休んでいましたが、専門の科目はちゃんとやっていて評定(高校の成績の平均)は 4.2 くらい。大学は東京工芸大学(工学部の情報系の学科)に指定校推薦で入って、研究室への配属時の GPA(大学の成績を平均した数字で、4.0 が満点くらいです)は 1.9 でした。これは、はっきり言って、かなり下のほうの数字です。書いておくのは、自慢でも、自虐でもありません。「ちゃんとしてきた人」が「ちゃんとしてないあなた」に説教する本だと、勘違いされたくないからです。むしろ、ちゃんとしてこなかった側の人間として、ここからこの本を書いていきます。

研究の話を、もう少しだけ続けます。本書の根っこにも関わるからです。僕がやっている ITS の研究には、ある共通の出発点があります。人間は不便にできている、というのが、それです。記憶できる量には限りがあって、注意は移ろいやすく、疲れる。意志の力には燃料があって、すぐ底をつく。やる気のある日とない日があって、それは本人にもうまく予測できない。僕たちは、自分の学習者の「ふがいなさ」を、責めたいわけではありません。責めたところで、人間が便利になるわけではないので、設計のしようがないからです。代わりにやるのは、その不便さを前提にして、それでも何かが起きる仕組みをどう組むか、を真剣に考えることです。これが、ITS という分野の核にある姿勢だと、僕は思っています。

ある時期から、これは自分の生活にもそのまま当てはまるな、と気づきました。僕という個人もまた、不便にできています。学生時代、授業に出る気が起きない朝が、たくさんありました。やりたいと思っているはずのことを、なぜか始められない夜が、たくさんありました。意志でなんとかしようとして、なんともならなかった経験が、たくさんあります。研究で人間の学習者を見るときと同じ目線で、自分自身を見てみよう、と思ったんです。「自分は弱い」と片づけずに、「自分はどういう不便さを持った人間か」と、設計者の視点から、自分の輪郭を描いてみる。そのうえで、その輪郭に合った仕組みを、自分のために組む。これが、僕がここ数年やってきた作業の、いちばん近い説明です。本書はある意味で、その作業の途中経過の記録でもあります。完成形を書いているわけでは、ぜんぜんありません。

それからもうひとつ。いま大学教員ですが、学生さんに何をどう教えればいいかは、正直、まだよく分かっていません。これも本当の話です。研究で僕が向き合ってきた「人間の学習者」は、論文や実験のなかで抽象化された存在で、目の前の学生さんひとりひとりは、それより遥かに複雑です。だからこの本は、教員としての立派な答えを書き並べるというよりは、答えがまだないなりに、自分が学生のころに気づけていたら気が楽になっていたかもしれないこと、を、淡々と書きとめている、というほうが近いと思います。各章の話は、書きながら、僕がいまでも困っていることのリストでもあります。書き終わってから自分で読み返して、自分自身に効かせるつもりで書いています。

この本のいちばんの宛先は、当時の僕と似たような場所にいるあなたです。不登校だった、低偏差値の高校・大学にいる、GPA が低い、もう手遅れだと感じている、自分は頭が悪いと思っている、ちゃんとした人生にならない気がしている。そういう感覚を抱えているあなたに、まず届けばいいなと思って書いています。ただ、もしあなたが「真面目に勉強してきて、いまそこそこの大学にいて、特に行き詰まりも感じていない」という側にいたとしても、この本を読んでもらって構いません。何かに違和感を感じているあなたにも、いくつかの章は届くと思います。

この本は 11 章あります。各章はそれぞれ独立して読めるようにしました。最初から順番に読んでもいいですし、気になった章だけ読んでもいいです。最後の章だけ先に読んでみて、ピンと来なければ閉じてもらってもいいです。本は開いた瞬間に読者のものなので、書いた人間の言うことを聞く必要はないですし、最後まで読む義務もありません。何か残れば、それでいいですし、何も残らなくても、それはそれで構いません。

それでは、第1章から始めます。最初の章のタイトルは「お勉強じゃなくて、学ぼう」です。僕がいちばん長く考えてきた、たぶん僕の人生をいちばん深いところで決めてきた、ひとつの問いがこれでした。