第2章 偏差値というスナップショット

「偏差値」という数字は、進路を選ぶ場面で、わりとよく顔を出します。模試の結果として、大学の難易度として、ときには高校や塾の選び方の指標としても。50 を平均にして、対象がそれより上か下かを、ぱっと数字で示してくれる仕組みになっています。便利は便利なんですが、ちょっと立ち止まって眺めてみると、気になることがあります。偏差値というのは、よく見ると、あるときの、ある集団のなかでの、対象の位置を、写真みたいに一瞬だけ切り取った数字でしかありません(こういう「ある一瞬を切り取った記録」のことを、この章では「スナップショット」と呼ぶことにします。スマホで撮るスナップ写真みたいなものだと思ってください)。ある模試を受けたとき、その模試を受けた人たちのなかで、自分がどのくらいの位置にいるか。それだけのことです。それなのに、世間ではこれが、その人の「頭のよさ」とか「人生の見込み」とか、もっと言えば「価値」みたいな話にまで翻訳されることがあります。これは、ちょっと無理がある翻訳だな、と僕は思います。一枚のスナップショットを、未来予知に使うようなものですから。

僕の場合の話を書いておきます。励ましでも武勇伝でもなくて、同じ偏差値スナップショットでも、その後の動き方で何が起きうるかの、ひとつの実例として書きます。

僕は東京工芸大学という大学を出ています。世間でいうと、偏差値で言って上のほうではない、いわゆる「Fラン」とか「Dラン」とか呼ばれるくくりに入る私立大学です(このあたりの呼称は俗語で、本人もどっちなのかよく分かっていません)。そこから博士まで進みました。博士号は東京工芸大学で取りました。その後、京都大学のとあるセンターで、ポスドク(博士号を取った後の、任期付きの研究員のことです。特定研究員と呼ぶこともあります)になりました。京都大学というのは、偏差値スナップショットの上では、上のほうの大学にあたります。それから東京理科大学で助教になり、いまは神奈川大学で任期なしの助教をしています。

書きながら、こういう経歴の話は、本当はあまりしたくないな、と感じています。なぜなら、こういう話を出した瞬間に、僕の経歴という別のスナップショットを、あなたに見せていることになるからです。スナップショットの精度を疑う章で、別のスナップショットを並べるのは、論理的には少し変な行為です。それでも書くのは、18歳の僕の偏差値スナップショットからは、いまの場所に僕がいることは、たぶん予測できなかった、という事実が、ひとつの材料になるかもしれないと思うからです。スナップショットというのは、未来予知としては、わりと精度が低いんです。これはお説教ではなくて、単純な観察として書いています。

ついでに書いておくと、僕が東京工芸大学を選んだのは、消極的な理由ではありませんでした。むしろ、けっこう積極的な理由があってのことです。僕は工業高校の電気・情報デザイン科という、ちょっと珍しい学科を出ていて、東京工芸大学には工学部(情報)と芸術学部(デザイン)の両方の学部がありました。これは僕の高校での専門と、ぴったり合っていました。指定校推薦(特定の高校から特定の大学に書類選考で進学できる仕組み)でも行けそうだったので、ちょうど良かったのです。実際に入ってみても、出会った人や得られた経験は希望どおりで、ちょっと頑張れば目にかけてもらえる環境でもありました。僕にとってはけっこう良い選択だった、と、いまでも思っています。世間的な階段の何段目かと聞かれれば、たしかに上のほうではないんですが、「下のほうに転がり落ちた」というニュアンスでは、ぜんぜんなかったわけです。

偏差値について、もうひとつだけ書いておきます。「偏差値は無意味だ」とは、僕は言わない、ということです。世の中には「偏差値なんて意味ないよ」「数字に振り回されるな」みたいなメッセージがたくさん流通しています。気持ちはわかります。それでも、僕は、無意味だとは思っていません。

理由は簡単で、偏差値が機能している社会では、それを使うと得をする場面が、現実にあるからです。高偏差値大学にいれば、研究費が集まりやすい。名前を持っていると、初対面で会ってもらえたり、選考に進めたりすることが増える。ネットワークの中に、後で効いてくる人脈が含まれている確率も、ほかの集団より高い。これらは、認めたくない人もいるかもしれませんが、現実です。日本社会のかなりの部分は、いまだに偏差値というシグナルを使って動いています。「無意味だ」と切って捨てるのは、現実の認識として、ちょっと正確じゃない気がします。

ただ、ここから先のほうがずっと大事なのですが、これらは全部「環境としての価値」の話であって、あなた個人の能力や面白さの値ではない、ということです。研究費が集まりやすい大学にいるのと、あなたの頭がいいのとは、別の話です。話を聞いてもらえる名刺を持っているのと、あなたが話す内容に価値があるのとは、別の話です。同じ大学に同じだけのネットワークがあっても、それを生かすか生かさないかは、また別の話です。偏差値という数字は、ある種の通行証として機能することがある、というのは事実です。それでも、通行証は通行証であって、あなたそのものではない。ここは混同しないほうがいい区別だと、僕は思っています。

ここから、当時の僕と似たような場所にいるあなたに向けて、もう少し書いてみます。不登校だった、低偏差値の高校・大学にいる、もう手遅れだと感じている、自分は頭が悪いと思っている、ちゃんとした人生にならない気がしている。そういう感覚を抱えているあなたのことです。僕はそっち側にいた人間なので、その自己評価がどう立ち上がるかは、けっこうわかる気がしています。何度測られても、自分が下にいる、という体験が積み重なると、その下にいる感覚は、自分の身体の一部みたいになっていきます。それを「気合いで覆してください」とは、僕は言いたくありません。覆せるものでもありませんし、覆さなくてもいいからです。

ただ、ひとつだけ書いておきたい観察があります。偏差値が高いとされる場所には、「言われた通りにちゃんとやってきた人」が多い、ということが、教える側に回って学生さんを見ているときの、僕のひとつの印象です。これは批判ではなくて、事実の観察として書いています。そういう場所にいる人の多くは、親や先生から「これをやりなさい」と言われて、それに応えてきた。応える能力が高かった。だから、いまそこにいる。それは、純粋に素晴らしい力です。

そして、もしあなたが、そうじゃない側にいるとしたら、ちょっと面白いことになります。不登校だった、欠席が多かった、内申が壊れた、低偏差値ルートを通った、誰かに勧められなかった選択をした。これらは、全部、あなたが「言われた通りにはやらなかった」回数のカウントでもあります。やれなかった、なのか、やらなかった、なのか、その両方なのかは、状況によると思います。ただ、いずれにせよ、あなたは「言われた通りに動かない」という経験を、多くの人より多くしてきている、ということになります。

これは、あまり評価されない種類の経験です。少なくとも、偏差値スナップショットの上では、マイナスにしか見えません。それでも、第1章で書いた、自分のなかから問いが立ち上がる、というあの感覚への手前の材料としては、これは絶対にゼロじゃないんじゃないか、と僕は思っています。「言われた通りに動かなかった経験」と「自分のなかから問いが立ち上がる経験」は、地続きのところがあるからです。両方とも、誰かが用意した道筋から、いったん降りる、という共通の動作を必要とします。降りた先で何をするかは、もちろん人によります。降りっぱなしで終わる人もいれば、降りた先で何かを見つける人もいる。だから「降りたからあなたは強い」とも、僕は言いません。それは結果論です。ただ、降りたことがある、という履歴は、あなたの元本の一部にはなる、ということは、言えそうな気がしています。気づいて使えば効いてきますし、気づかなければ眠ったままで終わります。

スナップショットというものについて、もうひとつだけ。外から撮られる写真とは別に、自分の側から自分の輪郭を描く、という作業もあるんです。

偏差値というスナップショットは、外から、ある一律の物差しで撮られた写真でした。撮る側がいて、撮られる側がいる、という関係です。一方で、自分のことを自分で見るときには、もう少し違う種類の作業ができます。「自分はどんなふうに動かないか」「どんな状況だと粘れるか」「何が地雷で、何が燃料か」、こういうものを、自分の言葉で書き出していく作業です。これを、本書では「自分の輪郭を描く」と呼んでみたいと思います。これは、僕がいま専門にしている学習研究の世界で出てくる発想と、地続きです。学習者が思うように動かないとき、僕たちは「学習者が悪い」とは考えません。「どういう種類の不便さを抱えた学習者なのか」を、丁寧に観察するところから始めます。これを自分自身に向けてみる、というのが、輪郭を描く、ということに近いと思っています。

輪郭は、人によってかなり違います。朝に弱いけれど夜は粘れる人がいます。逆の人もいます。人と話したあとに、ばたんと電池が切れる人がいます。話せば話すほど元気になる人もいます。選択肢が多いと固まる人がいます。多いほど面白がれる人もいます。目的が明確なら驚くほど集中できるけれど、目的があいまいだと一歩も動けない人もいます。これらは、どれも、強さや弱さの話ではなくて、「どういう仕様の生き物か」の話です。プロローグの庭の比喩で言えば、ここが「あなたの庭の土と気候」にあたります。あなたが選んで作ったわけではなく、生まれつき手元にある条件で、消すことも作り変えることも、たぶんできません。できるのは、その土と気候のなかで、何が育ちやすいかを観察すること、それに合った世話の仕方を組むこと、そのくらいです。

僕の場合の輪郭は、すでに書きはじめたとおりです。中学のころ、興味のあった分野の本は親に止められるまで読み続けたのに、夏休みの宿題は8月31日まで一行も書けない人間でした。同じ時間、同じ脳、同じ僕で、これだけの落差がある。これは「弱さ」というより「内発と外発の落差が極端に大きい」という、わりと固有の輪郭です。輪郭が見えてくると、対処の選び方も変わります。意志を強くしようとするのではなく、できるだけ「自分が選んだ感覚」が起きやすい形に、課題を組み直す、というほうに方針が移っていきます。

輪郭を描くときに、気をつけたいことがいくつかあります。ひとつは、他人と比較する目線では描けない、ということ。「あの人はできているのに、なぜ自分は」と並べると、見えるのは弱さの順位だけで、固有の輪郭は見えません。輪郭は、自分の側から、自分だけを見て描かないと、出てきません。もうひとつは、輪郭は終わりがない、ということです。20代で見えた輪郭は、30代で変わります。家族ができたり、仕事の性質が変わったり、体力の総量が変わったりすると、輪郭の形も変わる。「自分のことが分かった」と思った瞬間が、たぶんいちばん危ない瞬間だと、僕は思っています。輪郭は描き上がるものではなく、描き直し続けるもの、というほうが近いです。

最後にひとつだけ書いておきます。スナップショットには、決定的な特徴がひとつあります。これから新しいスナップショットを撮ることができる、ということです。18歳の写真は18歳の写真として残ります。これは消せません。でも、22歳の写真、25歳の写真、30歳の写真は、これから撮れます。そのときに写る数字は、18歳のときとは別物です。同じ集団の中での相対位置でもないし、同じ評価軸での測定でもない。

僕は18歳の自分のスナップショットを、いまでも覚えています。それを否定する気はありません。あれもひとつのスナップショットでしたし、あの僕もたしかに僕でした。ただ、18歳のスナップショットだけで、その後30年間の僕を予測しようとしていたら、たぶん予測は外れていただろうな、と感じます。これは確からしいと思っています。ということは、あなたの18歳のスナップショットだけで、その後30年間のあなたを予測することも、たぶん外れる、ということです。これは「だから諦めないでください」とか「だから努力してください」とかいう話ではなくて、スナップショットというものの、技術的な性質の話に近いです。スナップショットは、その後を予測する道具としては精度が低い。それだけのことです。そのスナップショットをどう扱うか、何度撮り直すか、どんな別の指標を自分の元本として育てるか、そして、外から撮られたスナップショットの横に、自分で描いた自分の輪郭をどう並べていくか。このあたりから、たぶん本番です。