第7章 種まきの時期

僕がパソコンを真剣に触り始めたのは、たぶん9歳くらいのときでした。当時の家には、父親が使っている古めの Windows マシンがあって、家族のなかで僕がいちばん長く触っていました。学校に行かない日が増えていたので、起きて、ご飯を食べて、PC の前に座って、寝る前まで PC の前にいる、みたいな日もよくありました。さすがに24時間ではないですが、一日のなかで10時間くらいは PC のまえに座っている、というのが、当時の感覚としてのデフォルトでした。

最初は、とあるオンラインゲームをやっていました。Stoneage という台湾のゲームで、日本語版があって、子どもでも遊べました。2〜3年くらいやりました。次に、C21 というロボットものに移りました。これは10歳前後の話です。さらに、TrueCombat: Elite という海外の FPS(一人称シューティングゲーム)に出会って、ここから FPS にどっぷり浸かることになります。中学生になって、不登校になって、家にいる時間がさらに増えました。FPS のチームに入って、夜中までネットの試合をしていたわけです。

並行して、自宅にサーバーを立てました。サーバーというのは、ほかの人が接続できるコンピュータのことです。最初はゲームサーバーで、自分のチーム用のものを Linux (リナックス、というパソコン用の基本ソフトのひとつ。Windows や Mac とは違う系統です)で立ち上げました。次に、ウェブサイトを置きたくなって、Apache(アパッチ、ウェブサイトを公開するためのソフト)を立てました。次に、PHP と MySQL(どちらもウェブサイトに動きをつけるための言語とデータベース)を覚えて、簡単な掲示板を作りました。その後、CMS(コンテンツ管理システム、ウェブサイトの中身を簡単に管理できる仕組み)と呼ばれるパッケージを使えば、ウェブサイトも掲示板も全部もっと簡単に作れることを知って、それを導入しました。これも全部、9歳〜中学生くらいのあいだの話です。

高校に上がってから大学院に至るまでのなかで、FPS は Special Force 2、Rainbow Six Siege と進化していきました。アマチュア大会で、Special Force 2 でベスト 8、Rainbow Six Siege でアマ大会2位まで行きました。その流れで、プロチームのコーチをやりました。コーチというのは、選手たちの試合を観察して、戦術を組み立てて、改善点を伝えていく仕事です。並行して、ロゴと名刺のデザインで小遣い稼ぎもしていました。色んな個人やチームのロゴを描いてあげているうちに、上達して、ほかの人にも頼まれるようになりました。1個100円とか、一組1000円で受けていました。けっこうな額の小遣いになりました。途中で名刺デザインも頼まれて、それもやりました。

これらのどれも、当時の僕は「いつか役に立つかもしれない」と思ってやっていませんでした。研究の役に立つ? そんなのまったく考えていません。就活に有利? FPS と就活はこれっぽっちも繋がる気がしませんでした。ただ単に、面白かったからやっていました。それだけです。

そこから時間を飛ばして、いまの僕の話をします。僕はいま、神奈川大学の教員で、研究室を運営しています。論文を書き、学生さんを指導し、共同研究のチームを組み、授業をして、研究費を取って、研究発表をする。9歳の自分が想像もしなかった仕事をしています。ここで、ちょっと不思議に感じていることがあります。9歳から高校までに僕が「面白いから」だけでやっていたことが、いまの仕事に、ぜんぶ効いている、ということです。

書いていて、自分でも本当に不思議なんですが、こういうふうに繋がっています。サーバー運営の経験は、いま研究室のサーバー管理に効いています。Linux のコマンドライン(パソコンに文字で命令する画面のこと)に何の抵抗もないですし、トラブルが起きても切り分けが早いです。9歳から長時間 PC の前にいた人間の、固有のスキルだと思っています。ロゴデザインの経験は、論文の図を作るとき、スライドを作るとき、そして図を「研究上の主張に変える」というレベルでも効いています。研究では、図のデザインが、主張の伝わり方を半分くらい決めることがある。デザイン感覚の元本が、論文のクオリティに直結する、というのは、研究の世界に入ってから気づいたことでした。FPS のチーム経験は、共同研究のチームを組むときに効いています。誰が何が得意で、誰と誰を組ませると爆発するか、誰がいま疲れているか、誰のロールを変えれば全体のパフォーマンスが上がるか。この感覚を、僕は研究より先に FPS で覚えました。プロチームのコーチ経験は、いま学生さんを指導するときに、丸ごと使っています。「叱責ではなく、観察事実だけを伝える」「成果ではなく、判断のプロセスを言語化させる」「自分が答えを言うのは最後」。これらは全部、FPS のコーチで覚えたことです。ロゴ・名刺デザインの小遣い稼ぎでクライアントワークをやった経験は、いま外部との共同研究で「相手が何を求めているかを聞き取って、形にする」というプロセスに、そのまま効いています。高校生のときに、メールで顔の見えない相手とやり取りして、修正を入れて、納品する、というプロトコルを身につけました。これは社会人スキルとしては、けっこう早熟だったかもしれません。

書きながら、自慢したいわけではない、ということを念のため添えておきます。僕がいまここで書きたいのは、「いつか役に立つかもしれない」と思ってやっていたわけではない、ということに、本当の意味があった気がする、ということです。役に立つと思って始めていたら、たぶん、半分くらいは続いていなかったと思います。「これ、本当に役に立つのか?」と途中で疑問が出てきたら、そこでやめてしまう確率が高い。9歳の僕は、そんな疑問を一度も持ちませんでした。面白いからやる、これしかありませんでした。だから20年以上続けられました。続けたから、元本になりました。

こういう、芽が出るかどうか分からないものを、たくさん蒔いておく、という構造を、僕は「種まき」と呼ぶことがあります。9歳の僕がやっていたことは、客観的に見ると、ぜんぶ「種まき」でした。芽が出るかどうかなんて、当時は考えていません。当時の僕は、ただ蒔いていました。そのうちの何個かが、20年後に、芽を出しました。芽を出さなかったものも、たくさんあるはずです。たとえば、僕は大学院生のときに革細工に手を出しました。これは、いまでも趣味として残っているのですが、「研究に効いている」と言える元本にはなっていません。たぶんなりません。それでもいいんです。革細工は、研究の役に立たなかった種、というだけのこと。でも、革細工をしている時間は、僕の人生にとって意味がある時間です。だから蒔いてよかった、と僕は思います。

書きながら気づいたんですが、種まきの話は、プロローグで書いた庭の話と、たぶん同じことを言っています。庭主は、何を蒔くかは選べます。でも、何が芽を出すかは、土と気候と偶然が決めます。だから庭主にできるのは、蒔く種類を増やしておくこと、と、芽が出たものを丁寧に世話すること、それだけです。蒔いた種が全部芽を出すと思って計画を立てると、ほぼ確実に外れます。逆に、何が芽を出すか分からないからこそ、たくさん蒔いておく価値が出てくる、というのが、庭でも種まきでも同じ仕組みなんだと思います。

種まきには、ふたつの大事な性質があるように感じています。ひとつは、どの種が芽を出すかは、蒔く時点では予測できない、ということ。FPS が研究の役に立つなんて、9歳の僕は考えていませんでした。考えていたら、たぶん FPS の選び方も変わっていたと思います。「役に立ちそうだから」FPS をやっていたら、コーチの仕事は引き受けていなかったはずです。それで、僕は元本のひとつを失っていました。もうひとつは、種を蒔く時間は、人生のなかで限られている、ということ。これは寂しい話ですが、社会に出ると、「これ何の役に立つの?」と聞いてくる人が増えてきます。会社の上司が聞いてきます。配偶者が聞いてきます。自分自身が聞いてきます。説明できないものに時間を使うのが、だんだんしにくくなります。学生時代は、何の役に立つか分からないけれど面白いからやる、を許される最後の数年です。完全に最後、とまでは言いません。社会に出てからも、無理を通して種を蒔き続けている人はいます。それでも、その難しさは、学生時代と比べてぜんぶ別物です。だから、学生のあなたが何かに夢中になっているとき、それを「就活に有利か」「将来の役に立つか」というメガネ越しに評価しないほうがいいんじゃないか、と思っています。むしろ、何の役に立つか分からないけれど面白い、その純度を、そのまま保つほうが、結果的に20年後の元本の質を決めるんじゃないか、と。

ただ、種まきが大事だ、と書いたところで、実際に続けるのは難しい、というのが現実です。理由は、わりとはっきりしています。人間の脳は、すぐ手に入る報酬に強く反応するようにできていて、何年も先の見返りに対しては、ほとんど反応してくれません。これは性格の問題ではなくて、種としての設計です。だから YouTube を10分見るつもりで開いて、3時間経っているのは、あなたの意志が弱いからではなくて、脳が「いま手に入る楽しさ」のほうを正常運転で優先しているから、というほうが近いです。一方で、「未来の役に立つかもしれないけれど、いまは楽しさが薄い」ものを続けるのは、その通常運転に逆らう作業です。意志力で対抗しても、長くは続きません。

それでは、どうしたらいいか。僕がたどり着いた答えは、すぐ手に入る楽しさのほうを、自分で設計する、ということです。「未来のため」と思ってやるのを諦めて、いまこの瞬間に楽しい形で、種まきが起きる構造を、自分の手元に作る。具体的なやり方として、僕がよく勧めているのが、何かを「作る」前提で学ぶ、というアプローチです。たとえば、プログラミングを学びたいとします。教科書を順番に読んで、文法を覚えて、練習問題を解く。これは「お勉強」のやり方で、すぐ手に入る楽しさが薄いです。3章くらいまでは耐えられても、5章で多くの人が脱落します。代わりに、「これを作る」と決めて、作りながら学ぶ。自分が好きなアニメのタイトルを集めるツールを作る、と決めます。作るために必要な技術だけ、作る順番で覚えていきます。教科書を体系的に読むのは、いったん諦めます。このやり方は、教科書順の学びに比べて、楽しさがふんだんにあります。書いたコードが動きます。データが取れます。画面に出てきます。これが続くから、学びが続きます。「作る前提で学ぶ」という発想が、長い目で見るとわりと効きます。

僕の場合、9歳の頃からの種まきは、ぜんぶこの形をしていました。ゲームをやっていれば、勝てた・負けたの即時フィードバックがあります。サーバーを立てれば、立った・立たなかったが分かります。ロゴを描けば、クライアントが受け取ってくれた・直しが入った、が分かります。作る前提だから、作った成果がそのまま即時報酬になっていました。種まきというのは、未来のための投資だ、と書きましたが、一見すると、即時報酬と相性が悪そうです。でも、作るプロセスを噛ませることで、即時報酬と未来への投資を、同時に成立させられる。未来のためじゃなく、いまこれが面白いから作る、という形に持ち込めれば、種まきは続きます。続けば、元本になります。元本は、20年後にどんな芽を出すか分かりませんが、それでいいんです。

「では、何を蒔けばいいのか」という問いがあるかもしれません。これは、本当はその人によって答えが違うので、リストを渡してもあまり意味がありません。リストを渡された種を機械的に蒔いても、芽は出にくい。ただ、僕の経験から、ヒントとして書けることがあるとすれば、こういう感覚があるものは、蒔いておくと後で効く確率が高い気がする、というくらいのことです。気づいたら3時間経っていた、というような、時間が溶ける感覚があるもの(これは脳が「報酬がある」と判定しているサインです)。負けて悔しいけれど、もう1回やりたい、と思える種類のもの。誰も評価してくれないのに、勝手に手が動くもの。小さく作って、見せて、フィードバックがもらえるもの。やればやるほど、別のことに繋がりはじめるもの。逆に、「やらなきゃ」と思いながらやるもの、誰かが「やるといいよ」と言うからやるもの、即時報酬がない/極端に遠いもの、小さく作って試せないものは、蒔いても芽が出にくい確率が高い、と感じています。ただ、これらは絶対の判断基準ではありません。「やらなきゃ」と思いながらやって、結果として元本になることもあれば、「誰かに勧められて」始めてハマることもあります。だから、これは判断補助として読んでもらえれば十分です。

ところで、ここまで書いてきた「種」は、ぜんぶ、何かを作る・触れる・遊ぶ、という形をした、目に見える活動でした。FPS、ロゴ、サーバー。外に出力が残るタイプの種です。実は、目に見えにくいけれど、後で効いてくる種、というのもあります。睡眠、運動、食事、人と話すこと、自然に触れること、休むこと。

この種類は、蒔いても、その瞬間には何も起きません。FPS で勝てるようになるとか、コードが書けるようになるとか、そういう「できることが増える」というフィードバックを、ほとんど返してくれません。だから、これは種だ、と気づきにくい。むしろ、「やりたいことから時間を奪う活動」に見えてしまうことがあります。20歳の僕は、明確にそう思っていました。睡眠を削れば、その分、できることが増える、と思って、平気で徹夜していました。これは、いまの僕からすると、種を踏み潰しながら走っていたようなものです。

これらの種が効いているかどうかは、何ができるようになったか、では測れません。「同じ時間で、自分の脳のなかにどれくらいの燃料が残っているか」、で測られます。これは外からは見えません。本人にも、すぐには見えません。10年単位で見ると、「あ、この人はずっと容量に投資してきた人だな」「あ、この人は容量を削り続けてきた人だな」というのが、はっきり差として出てきます。社会人になってから、これが効きはじめます。容量に投資してきた人は、30代になってもやりたいことに突っ込めます。削ってきた人は、30代になると、たぶん天井が来ます。

両方の種を蒔きましょう、と書きたいわけではありません。バランスは人それぞれです。ただ、目に見える種だけを、種だと思いこんでいると、見えにくいほうの種を踏み潰しながら蒔き続けることになります。あとから「あれも種だったんだ」と気づいてからでも、蒔き直しはできるんですが、踏み潰した側のリカバリーには、けっこう時間がかかります。複利は逆向きにも効く、という話と、これも同じ構造です。

最後に、種まきを長く続けていると起こる、ちょっと面白い現象について、書いておきます。長く続けていると、ある時点から、自分のなかに「世界の見え方の偏り」のようなものが、できはじめるんです。ある分野を長く触っていると、その分野のメガネ越しに世界を見るようになります。FPS を長くやっていると、街を歩いていても、勝手に「視界の死角」「人の動きの予測」「角の取り合い」みたいな概念で街が見えてきます。デザインを長くやっていると、看板の文字組や、配色の良し悪しが、勝手に目に入るようになります。サーバー運営を長くやっていると、世の中のあらゆるシステムが、「壊れたときの復旧手順」とセットで見えてきます。これは、あなたの世界そのものが、あなたの蒔いてきた種によって、独自の色に染まっていく、ということだと、僕は感じています。ふたつの種を蒔いた人と、十の種を蒔いた人とでは、世界の見え方の解像度が違ってきます。世界は誰かが用意してくれるものではなく、あなたが蒔いた種が、あなたの見ている世界を作る、というほうが近い。これが、種まきという話と、複利という話と、自分の世界という話が、地下でつながっているところです。最終章で、もう一回、この話に戻ってきます。