第9章 教員も実は分かってない

中学1年の朝の話から、書きはじめさせてください。僕はベッドに寝ていて、目は覚めています。天井を見ています。学校に行く時間が近づいている。たぶん時計は7時を指していたとか、そのくらいだったと思います。母親が「謙人、起きてるの、もう行く時間でしょう」みたいな声をかけてきた、と思います。これも記憶なので、正確なセリフかは怪しいですが。そのとき、僕は、起きあがれませんでした。正確に言うと、起きあがろうと思えば起きあがれたんです。身体はふつうに動きます。熱もないし、風邪でもないし、学校でいじめられているわけでもありません。「学校に行きたくない、明確な理由」というのが、しいて言うなら、ありませんでした。ただ、行く意味が、わからなかったんです。授業に出ても、特に何かが分かるわけではない。先生は黒板に書きます。僕はそれを見る。理解する瞬間もあるんですが、理解したことを使う場面がない。次の日、また同じことが起きる。何かが積まれている感覚はないし、減っている感覚もない。何のためにこの場所に毎日通っているのか、自分のなかで答えが出ない。

天井を見ながら、その問いを、ぼんやり考えていました。中学生の頭で考えていたから、大したことは考えられていません。ただ、結論として、その日は「行かない」を選びました。次の日も行かなかった。次の月も、ほとんど行かなかった。気がつくと、ほぼ不登校という状態になっていました。これが、いまの僕の元本のひとつになっています(元本については第6章で詳しく書きました。ここではざっくり「自分のなかに積まれてきた経験」だと思ってください)。

書きながら、これは別に立派な話ではないですし、自慢でもないし、必要な経験だったとも思いません(不思議と、後悔も全くありませんが)。行かないという選択をできたのは、僕の家族が僕の不登校を許容してくれたからです。許容してくれない家庭で同じ選択をしていたら、もっと違う結果になっていたはずです。だから「不登校でもなんとかなる」という一般化はできません。あくまで、僕の場合の話です。それでも、あの朝のことは、いまも覚えていて、振り返ると、僕は「行くべきだという正解」を、生まれて初めて拒否したのかもしれない、と感じます。たぶんそれが、僕の人生のなかで、最初の自分の選択だったような気がしています。

時間を進めて、大学のころの話をします。僕は大学の授業を、まともに受けていませんでした。配属時の GPA は 1.9 でした。なぜ授業を受けなかったかというと、これも、行く意味がわからなかったから、というのが、いちばん近い理由です。中学生のときの天井の話と、構造として同じだったんです。授業に出ても、特に何かが分かるわけではない。先生は前で話す。僕はそれを聞く。聞いたことを使う場面が、見えない。何のためにこの場所に毎日通っているのか、自分のなかで答えが出ない。問題は、大学では、不登校を選ぶと、留年や退学に直結することです。中学のような「家族が許容してくれる」のと、大学のような「制度が許容しない」のは違います。だから僕は、半分は出席して、半分は出ない、という、けっこう中途半端な状態を維持していました。試験は最低限通します。レポートは最低限出します。GPA は1.9。

そんな僕に、ちょっと面白い話があります。大学1年生のとき、授業が暇すぎたので、研究室というところを覗いてみたい、と思ったんです。研究室というのは、大学の先生が、自分の専門の研究をする場所のことです。学部の3年生か4年生くらいから、学生も配属されて、そこで卒業研究をします。本来、1年生がいきなり訪ねるような場所ではありません。それでも、ある先生のところに、ふらっと話を聞きにいきました。「研究室、見せてもらってもいいですか」みたいな話だったと思います。

その先生は、僕の話を聞いて、こう言いました。「成績で一番になってから来なさい」。成績そのものを見られたわけではなかったと思います。たぶん、本当にただ、適当にあしらわれただけです。授業もろくに出ていなさそうな1年生が、いきなり「研究させてください」と来る、そりゃあ相手にしようがなかったでしょう。当時の僕も、特に怒るわけでもなく、「あ、はい」と帰ってきました。ふつうなら、ここで終わりです。「先生に断られたから、研究は無理だな」と思って、撤退する。それが自然な反応です。ただ、なぜか僕は、そこで止まりませんでした。

大学2年生になって、僕はもう一度、同じような話を、別の先生のところに持っていきました。「研究してみたいんですけど」。相手は、その年に新しく赴任してきた先生でした。僕の成績の話も含めて、ひととおり聞いたあと、その先生はこう言ってくれました。「うちで研究していいよ」。いま振り返ると、その先生が「いいよ」と言ってくれた理由は、わりとはっきりしているような気がします。授業に出ていないとか、成績がどうとか、そういう数字の手前で、たぶんその先生は、「学ぼうとしている」というその一点だけを見てくれていたんだと思います。これがちょっと面白いのですが、奇しくもその先生は、「学習工学」と呼ばれる分野の研究者でした。学習工学というのは、人がどう学ぶかを工学的に研究する分野で、いまの言い方だと「教育 AI」と呼ばれることもあります(じつは、これがいまの僕の専門にもつながっています)。「人が何かを学ぼうとするときに、何が起きているか」を研究している先生だったので、学ぼうとしている学生を、見逃しにくい先生だった、というのは、ありそうな話だと思います。これはあとから気づいたことで、当時の僕は、ただ「いいよ」と言ってもらえてラッキーだな、と思っただけでした。

ここで書きたいのは、「成績で一番になってから来なさい」と言った先生と、「うちで研究していいよ」と言った先生が、同じ大学の中に両方いた、ということです。同じ「研究室の先生」でも、何を基準に学生を見るかは、人によって違います。ある先生に断られたからといって、別の先生にも断られるとは限りません。

最初に「うちで研究していいよ」と言ってもらえたのは、たしか大学2年生になってすぐの春ごろだったと思います。ただ、当時の僕は、もうひとつ別のことにも興味があって、本来のこの研究室で本格的に手を動かしはじめたのは、2年の秋でした。その秋から、僕はその研究室で、FPS の研究を始めました。FPS は、シューティングゲームのことで、僕が9歳から続けてきた、いちばん詳しい分野です。先生は「面白いね」と言って、それを研究としてやらせてくれました。9歳から続けてきたゲームが、20歳の自分の研究テーマになる。これは、いま振り返っても、ちょっと信じられない展開です。論文を書くという作業は、誰かが用意した正解と照合する作業ではありませんでした。まだ誰も書いていないことを、自分で書きにいく作業でした。これは、僕の頭と、たまたま、ものすごく相性がよかったんです。授業ではぜんぜん発火しなかった部分が、論文を書く作業では発火しました。具体的なエピソードをひとつだけ書いておくと、大学3年の秋(9月)ごろに、僕はもうひとつ別の研究を新しく始めました。それが、半年後に、論文として採録されたんです。短報(たんぽう、というのは、論文のなかで短い形式のひとつのことです)という枠ではありましたが、ちゃんと審査を通って、世の中に公開される論文になりました。これは、僕の人生のなかで、たぶんいちばん最初に「あ、複利が効きはじめたかも」と感じた瞬間でした。3年生の冬には、研究室の正式配属の手続きがありました。配属に入れるかどうかは、一番下のボーダーだったらしいです(ボーダーというのは、合否の境界線のことです)。配属時の GPA が 1.9 だったので、それはそうでしょう。それでも、なんとかボーダーをくぐり抜けて、僕は同じ先生の研究室に正式に入れました。結局、博士号を取るまで、ずっとその研究室にいました。そこから修士1年くらいまでで、僕は、それまでの18年間で積めなかったものを、急速に積み上げ始めました。複利が効きはじめたんです。これが、いまの僕の経歴の、ほんとうに最初のスタート地点です。

ついでに、もうひとつ、書いておきたい話があります。じつは、こちらのほうが、FPS よりも先に始まっていました。僕は当時、ロゴマークの研究もしてみたかったんです。中学生の頃から、ゲーム仲間のためにロゴをデザインして、小遣い稼ぎをしていた延長で、「これも研究としてやれないかな」と思っていました。最初に「うちで研究していいよ」と言ってくれた先生の専門は、ロゴマークではありませんでした。それで、僕は、大学2年生になってすぐ、別の学科の研究室にも、勝手に通うようになりました。学科というのは、大学のなかの専門分野ごとの区分けです。ふつうは、自分の所属する学科の先生にしか研究の指導は受けません。でも僕は、興味の方向に合わせて、別の学科の先生のところにも通って、面倒を見てもらっていました。そっちの先生は、ロゴデザインに近い分野の人で、僕の話を聞いて、「いいよ、見るよ」と言ってくれました。大学2年の春から夏にかけて、僕はその別学科の研究室で、ロゴマークの研究を進めていました。それが一段落したのが、ちょうど夏の終わりごろ。その流れで、秋からは本来の研究室でも FPS の研究を始めた、という順番です。つまり、大学2年生のとき、僕はふたりの先生のもとで、ふたつの研究テーマ(ロゴマークと FPS)に取り組んでいた、ということになります。ふつうの学生はあんまりやらないことかもしれません。でも、当時の僕は、自分の興味に合わせて勝手に動いていました。

これらの経験から、僕がいま思っていることを、ふたつだけ書いておきます。ひとつは、大学の先生に断られても、別の先生のところに行けばいい、ということです。先生はひとりではありません。あなたの興味と合う先生は、たぶん、どこかの学科にいます。「成績で一番になってから来なさい」と言われたら、別の先生のところに行けばいいんです。それで開かれる扉が、ぜったいにあります。もうひとつは、「正式配属」の時期を待たずに、興味があるなら早く動いていい、ということです。1年生でも2年生でも、興味を持った研究室に行って「見せてください」「やらせてください」と言うのは、たぶん多くの大学で許される行動です。怖がる必要はありません。仮に断られても、何かを失うことはありません。「成績で一番になってから来なさい」と言われるくらいです。それから、学科をまたいでもいいんです。自分の所属する学科の先生だけが、あなたの先生ではありません。興味がある分野の先生が別の学科にいるなら、そっちにも話を聞きに行ってみるのは、ぜんぜんアリです。これも、僕がたまたま運がよかった、というだけの話かもしれませんが、動かないと、出会いそのものが起きない、ということだけは、僕の経験から書いておきたいんです。

ここから少し、視点を変えます。いま僕は大学教員です。神奈川大学で助教をしています。大学教員というのは、一般的には、研究室を運営して、学生さんを指導して、授業を持っています。教員になってから、いちばん最初に僕が直面したのは、「僕、学生に何をどう教えたらいいか、わからないな」という、驚くほど素直な戸惑いでした。これは謙遜ではなくて、本当に分からなかったし、いまでも完全には分かっていません。書きながら自分でも「これ言っちゃっていいのか」と思うのですが、本だから書きます。考えてみると、不思議な話です。僕は学生時代に「ちゃんと授業を受けてきた人」ではありません。いま僕の授業を受ける学生さんに「ちゃんと授業を受けてください」と言うのは、たぶん筋が通りません。だからといって「僕みたいに授業を受けないでください」とも言えません。「大学の制度では、出席しないと留年しますからね」という現実的な事情があるからです。そもそも、大学の授業で学生に何を持って帰ってもらうのが正解なのか、という問いに、僕自身が答えを持っていません。授業を聞いて知識が頭に入る、ということが大事なのか。授業を聞いて、自分のなかから問いが立ち上がる、ということが大事なのか。授業をきっかけに、誰かと話したり、何かを作ったりする行動が起きることが大事なのか。これらの何が、何より大事なのかは、僕の中で、まだ決着していないんです。そして気づいたのですが、これは僕だけの問題ではなさそうなんです。

ここで、ちょっと歴史の話を挟ませてください。もともと大学というのは、「専門家が知っていることを、口頭で話す」場所として始まりました。中世の大学では、各分野の権威が壇上に立って、自分の知識を学生たちに語って聞かせる、というスタイルで運営されていました。本が高価で印刷物が出回る前の時代には、知っている人間の口から直接聞くのが、いちばん効率のいい知識伝達の方法だったからです。だから、大学教員に求められたのは、教える技術ではなくて、口から出る専門性そのものでした。

この構造は、現代の大学にも、かなりの程度、残っています。大学教員のほとんどは「教育学の博士号」を持っているわけではありません。「研究の博士号」を持っている人が、その研究分野の知識をベースに、見よう見まねで授業をしている、というのが、大学のごくふつうの姿です。研究のプロが、教えることをやらされている。プロではないのですから、何をどう教えたらいいか分からないのは、ある意味で当然です。

ただし、これは大学教員が無能だ、という話ではありません。中学・高校の先生は、「教えるプロ」であることを、まあまあ要求されます。なぜなら、中高で扱う内容は、すでに答えがあるものだからです。数学の公式、歴史の年号、英語の文法、化学の反応式。これらは、人類がすでに発見し、教科書に整理した知識です。先生の仕事は、その整理された知識を、効率よく、わかりやすく、生徒の頭に届ける、ということ。これは「教える技術」がモノを言う仕事です。大学の専門に入ると、扱う内容の性質が、少し変わります。まだ答えがないもの、答えがあるけれど人類がまだ完全に整理できていないもの、答えが複数ある(あるいはどれが正解かわからない)もの、が、たくさん含まれてきます。研究室に入ると、ほぼ全部がこれです。教員も答えを持っていません。教員と学生で一緒に、答えのない場所に向かって、手探りで進んでいくことになります。この場面では、「教えるプロ」というスキルは、たぶんあまり役に立ちません。代わりに必要なのは、「答えがないことに、一緒に向き合う」スキルで、これは「教えるプロ」のスキルとはぜんぜん違う筋肉だと思います。

学生さんの側からすると、先生が答えを持っていない、と知ると、ちょっと裏切られた気分になるかもしれません。中高までの「答えを教えてくれる先生」のイメージで来ているからです。「先生のくせに分からないんですか」と思う瞬間があるかもしれない。これに対して僕がお伝えしたいのは、それが研究室という場の、構造的な本質に近いものだ、ということです。先生が答えを持っていないのは、怠けているからではなく、そもそも答えがないものを扱っているから、持っていないんです。

ということは、大学の使い方も、中高までと変わるということになります。中高までは、「先生に正解を聞きにいく」場所でした。試験範囲を確認したり、わからない問題の解き方を聞いたり、進路の答えを求めたり。先生は、答えを知っていることが期待されていました。大学は違います。大学は、先生と一緒に問いを立てにいく場所であり、もうひとつ、先生の専門性を分けてもらう場所でもあります。「これってどういうことなんですか」と聞きにいって、「僕もよく分からないんだよね、面白いよねそれ」と返ってくることもあれば、「あ、それね、僕の研究にかなり近いところで、こういう議論があって」と、専門の深いところまで連れていってくれることもあります。どちらも大学です。分からないことを「面白い」と感じている先生も、自分の専門の話を生き生きと話す先生も、両方とも、大学的にはむしろ正常運転だと思います。

それから、大学教員は、いち人間で、得意不得意があります。ある先生は研究は素晴らしいけれど、人と話すのが苦手かもしれません。ある先生は、雑談すれば最高の話し相手だけれど、論文の指導は不慣れかもしれません。ある先生は、就職の話を聞くと最高にうまくサポートしてくれるけれど、研究テーマの相談には乗りにくいかもしれません。教員もそれぞれの元本を持った具体的な人間だ、というだけの話です。だから、大学の先生に対しては、いいところを使い倒したらいいと、僕は思っています。論文指導が上手い先生には、論文の話を持っていく。雑談が得意な先生のところには、進路の悩みを持っていく。研究テーマでは合わなくても、人間として尊敬できる先生のところには、生き方の話を持っていく。ひとりの先生に、自分のすべての悩みを解決してもらおうとしない。先生はスーパーマンではありません。それぞれの先生のいいところを、あなたが見つけて、あなたが組み合わせます。これは、何に何を聞くかをあなたが判断する、という意味で、ディレクターの仕事の延長にあるものです。僕の場合、学部2年のときに、ひとりの先生に「うちで研究していいよ」と言ってもらい、別の学科の先生に「ロゴマークの研究」を見てもらい、ふたりの先生のいいところを別々に使っていた、ということになります。これも「使い倒し」のひとつのやり方だったかもしれません。

ここで、教員側からひとつだけお願いを書かせてください。学生さんのなかに、「指示待ち」の方がけっこういらっしゃいます。「先生、何をやればいいですか」「次に何を読んだらいいですか」。素直でいい姿勢に見える質問ですが、教員側から正直に書きますと、これに対してこちらも何を渡していいか、よく分からないんです。教員は、その学生さんが何に興味があって何に詰まっているかを、最初は知りません。発信してくれないと、見えないんです。逆に、やりたいことが漠然とでもある学生さんには、教員側はものすごい量の情報を渡せます。完成した質問でなくていいんです。「なんかわかんないけど、こういうのモヤモヤしてるんですよね」でも構いません。むしろ、そのモヤモヤを言語化される前の段階で持ち込んでもらうのが、研究室の使い方として、いちばん良いと思っています。一緒に言語化していく時間が、研究室での最高の時間のひとつです。

教員と学生の関係を、レース風に書くと、教員は伴走者で、走るのはあなた、というのが、いちばん近いと思います。伴走者は、あなたの隣を、あなたのペースで一緒に走ります。転びそうになれば支えますし、コースの先に何があるかも教えます。ただし、伴走者はあなたのかわりに走りません。これが大事なところで、教員はあなたの人生の責任を取れませんし、取らないんです。これは冷たい話ではなくて、その責任は、あなただけが取れるところに置いておくのが、長期で見ていちばん効くからです。誰かに預けると、上手くいかなかったときに誰かのせいにできるようになって、それは誰かに変えてもらわないと変わらない人生のかたちに、ゆっくりつながっていきます。「私の選択は私が取る、責任も私が取る、相談はする、でも最終決定は私がする」、この感覚を、低学年のうちに少しずつ作っておいてもらえると嬉しいです。

最後に、研究室だけではなく、あなたが出会う「上の方向」の関係性すべてに、ここまでの話は広がります。サークルの先輩、バイト先の店長、インターン先の社員、家族。これらは全部、あなたよりも何かしら先に経験を積んできた人たちです。それぞれが、それぞれの元本を持っています。先輩はその先輩の経験という元本を、店長は社会経験という元本を、家族は家族の歴史という元本を。一方で、彼らは誰も、あなたの人生の答えを持っていませんし、あなたの人生の責任を取れません。これは、教員と同じ構造です。あなたが興味の方向を発信したときに、ピンポイントで何かを渡せる「資源」として、相手を見る。ひとりにすべてを預けない。それぞれのいいところを、あなたが組み合わせる。これがディレクターの仕事の延長で、相手が教員でもバイト先の店長でも、構造としては同じです。

「私の人生の責任を、誰かに肩代わりしてほしい」と思って場所を渡り歩くと、どこに行っても、誰も肩代わりしてくれない、ということに気づくだけで、4年間が終わってしまうかもしれません。「私の世界を広げる素材を、ここから何ひとつでも持ち帰る」と思って場所に向き合うと、どこに行っても、何かしらは持ち帰れるようになるはずです。そして、その持ち帰った断片の集まりが、あなたの元本になっていきます。これが、教員も実は分かってない、という章で、いちばん僕がお伝えしたかった話です。

なお、教員や先輩のような「上の方向」の関係性とは別に、もうひとつ、大学時代に重要になる関係性があります。それは、横の方向の関係性、つまり「仲間」と呼ばれるものです。これも本書のなかでは大事な話なので、章を独立させて、次で書きます。