第3章 「楽に生きたい」という言葉について

教員をやっていると、学生さんから「将来、楽に生きたいんです」みたいな話を聞く機会が、けっこうあります。これはわりと素直な希望だと、僕も思います。生きるのに余白が欲しい、しんどい毎日は嫌だ、という願いは、たぶん人類のほぼ全員が持っているものです。

ただ、その話を聞いたときに、僕はいつも、心の中でひとつだけ、聞いてみたくなる問いがあるんです。それは、「楽に生きたい、と言うとき、その『楽』って、どういうことを指していますか」というものです。聞いてみると、たいていの人は、すぐには答えられません。少し詰まります。「楽に生きる」という言葉は、聞き手の頭のなかで、なんとなく、ぼんやりとした像を結ぶんですが、その像の輪郭をくっきりさせるような問いを向けると、像のほうがゆらぎはじめる。そういう経験を、何度かしてきました。

たとえば、こんな質問を続けてみたことがあります。「コンビニの店員さんとか、清掃の仕事をしている人とかは、楽に生きていそうに見えますか」。

ここで、ひとつだけ、絶対に書いておかないといけないことがあります。コンビニで働いている人も、清掃の仕事をしている人も、決して劣った職業の人ではありません。これは前置きや言い訳ではなくて、本心です。仕事に上下や優劣は、本当はないと思っています。それでも、この章でわざわざこれらの職業を取り上げるのは、僕たちの頭のなかに、無自覚に「仕事の階段」のようなものが組み込まれていて、それを取り出して、自分の手でほどいてみよう、という意図があるからです。職業そのものを否定するのではなく、自分のなかの思い込みのほうを、一緒にほどいていきます。もしコンビニや清掃の仕事をしている人が、家族や友人にいて、その立場で読んでくれているなら、この章はあなたを否定するつもりはまったくありません。むしろ、ここで分解しようとしている「頭のなかの勝手な階段」のほうが、あなたが日々向き合っている、いちばん理不尽な相手だと思います。そっちを一緒に解体しに行く章だと思って、読んでもらえると嬉しいです。

さきほどの問いに戻ります。「コンビニの店員さんは楽に生きていそうに見えますか」。これを聞くと、たいていの学生さんは、ちょっと詰まります。「いや、別に……」と言葉を探したりします。明確に「給料が低いからダメです」と即答する人は、案外少ないです。

よく考えてみると、これはちょっと不思議な反応なんですよね。「楽に生きたい」という条件で言うと、コンビニの仕事は、わりと優秀な選択肢に見えるはずだからです。シフト制で時間が決まっています。残業の幅が比較的小さい。仕事の裁量権はないかわりに、責任の幅も狭い。覚えるべき業務は半年で頭打ちになる。家に帰ったら頭を使わなくていい。「楽に生きる」の少なくとも一部の条件を、明確に満たしています。それなのに、「楽に生きたい」と言った口で「コンビニ店員は……」と詰まるのは、頭のどこかに、楽に生きるための選択肢として、コンビニ店員を勝手にリストから外しているんじゃないか、と思うんです。なぜ外しているのかを、その人自身もうまく言葉にできない。これがけっこう興味深いポイントで、言葉にできない理由で選択肢を外す癖を、本人もまだ自覚していないことが多い、という気がしています。

もうひとつ、聞いてみたくなる問いがあります。「もしコンビニ店員という仕事が、あなたにとって楽しいと感じられるのなら、それは天職じゃないでしょうか」。これを聞くと、また少し詰まります。「いや、楽しくないとは言ってないし……」「やったことはないので、わからないです」みたいな返答が来ることがあります。ここまで来ると、ひとつ気づくことがあります。「楽しいかどうか」を判定する材料を、まだ持っていないまま、選択肢から外している、という構造です。

それから、もうひとつ。「もし楽しくはないけれど楽である、という仕事だとしたら、それは何の問題なのでしょうか」。これも、ときどき聞いてみる問いです。楽しくない仕事は嫌だ、と言いたい気はする。でも、最初に言ったのは「楽に生きたい」のほうです。「楽しい」と「楽である」は、近い言葉ですが別物で、両方を兼ね備えた仕事はそんなに多くありません。「楽だが楽しくない仕事」と「楽しいけれど大変な仕事」のどっちを取るか、というのは、選ぶ人による話で、どちらかが一律に正解、というわけでもないと思います。

このあたりまで質問を進めると、たいていの学生さんは、自分のなかの「楽に生きたい」という言葉が、思っていたほど明確じゃなかった、ということに、ぼんやり気づきはじめます。

なぜ詰まるのでしょうか。理由はいくつかありそうです。ひとつは、「コンビニ店員 < デスクワーク < 大企業正社員 < ……」みたいな、仕事の階段のようなものが、頭のどこかに、わりと無自覚に組み込まれているからかもしれません。誰がいつ組み込んだのかは、人によって違います。親が言った言葉、テレビが流した映像、進路指導の先生が示した分布図、就活サイトの年収ランキング、SNS で見たマウント、いろいろが混ざっています。そのうえ、その階段を自分が信じている、とは認めたくない。なぜなら、それを認めたら、自分が職業差別をしている人に見えてしまうから。だから、無自覚なまま、階段を信じたまま、「楽に生きたい」と言う。本心では階段を上りたいのに、表面では「楽でいい」と言っている、という、ねじれた状態が生まれます。

もうひとつは、「楽に生きる」という言葉自体が、ぼんやりしすぎている、ということだと思います。何が楽なのか、いくらあれば楽なのか、誰と過ごすのが楽なのか、何時間働けば楽なのか、何を諦めれば楽なのか。これらが言語化されないまま、「楽に生きたい」とだけ言ってしまうので、自分の発した言葉のはずなのに、自分でもうまく扱えなくなる。前者(仕事の階段)は、たぶんこの本だけでは解体しきれませんし、解体する責任は僕ひとりが負うものでもありません。後者は、ある程度、自分の手元でほどけるはずです。

「楽に生きる」をほどいていくときに、もうひとつ、見落とされがちな次元があります。これは、お金の話に入る前に、書いておきたいんです。

「楽」というのは、お金が足りていて、時間も余裕がある状態のことだ、というふうに、つい考えがちです。たしかに、そのふたつは大事です。ただ、僕がいくつかの場面で気づいたのは、お金と時間が両方そろっていても、なお「楽じゃない」ことがある、ということでした。

具体的に書きます。たとえば、毎日11時くらいに、一日の予定をぜんぶ終えて、机のまえに30分の自由時間が残っているとします。物理的な時間は、確かに30分あります。「英語の勉強でもしようかな」と思って、参考書を開きます。ところが、30分後に気づくと、開いていたのはスマホで、参考書のページは1ページも進んでいません。これを「意志が弱い」で片づけるのは簡単ですが、一日の終わりの30分は、朝の30分とは別物だ、というほうが、たぶん精度の高い説明です。朝の30分の僕は、一日のなかで、まだ何の決断もしていない人間で、脳のなかの何かがすっきり動きます。夜の30分の僕は、すでに授業や課題や人間関係の機微をたくさん処理してきた人間で、脳のなかの何かが疲れて、文字を読むのに必要なリソースがほとんど残っていません。物理的には同じ30分なのに、できることが全然違います。

学習や認知の研究のなかでは、これを「認知資源(cognitive resources)」と呼ぶことがあります。working memory(短期的に何かを覚えておく場所)の容量、注意の量、意思決定のための燃料、感情のキャパシティ。こういうものの総称です。要は「脳の燃料」みたいなものだと思ってください。これは時間とは別の通貨で、補充と消費のサイクルを持っていて、一日の終わりにはたいてい底をついています。これがあるかどうかで、同じ30分の使い方は、まるで別のものになります。

ここまで来ると、「楽に生きたい」の中身が、もうひとつほどけてきます。「楽」というのは、お金や時間だけでなく、「自分のやりたいことに使える脳の燃料が、その時間に残っている状態」のことでもある、ということです。お金がある人でも、毎日12時間、判断と気遣いを要求される仕事をしていて、家に帰ったら何も考えられない、という人は、世の中にたくさんいます。お金は楽だけれど、認知資源はずっとカツカツ、という生き方です。逆に、お金は多くないけれど、判断の少ないルーティン仕事を抱えていて、家に帰ったあとも自分のやりたいことに使える脳が残っている、という生き方もあります。どっちが「楽」かは、その人がどっちの通貨を欲しがっているか、によって決まります。書きながら、これを20歳のころの自分にちゃんと教えてあげたかったな、と思います。

このことが分かると、「コンビニ店員は楽に生きていそうに見えますか」という問いの読み方も、ちょっと変わります。物理的な時間と、可処分の認知資源の、両方の通貨で見る、というのが、わりと現実的な観点になってきます。シフトが終わったあとに、自分のやりたいことに使える脳の燃料が、たくさん残るのか、残らないのか。これは仕事の種類だけで決まることでもなくて、その人の固有の不便さの形(前章で書いた、自分の輪郭ですね)にもよります。だから、答えは人によって違います。

「楽に生きる」をほどいていくときに、入り口としてわかりやすいのは、お金から入る、ということかもしれません。たとえば、「楽に生きるのに、いくらあればいいでしょうか」と聞いてみる。すぐに答えが出ない人が多いと思います。出てきても「年収500万円くらいかな」みたいな、きりのいい数字がぽろっと出てくる。500万円という数字は、たぶんどこかで聞いた数字を思い出して言っているだけで、その500万円の内訳を即答できる人は、ほとんどいないんじゃないでしょうか。

そこで、もう一段問いを進めてみます。家賃にいくら、食費にいくら、通信費・光熱費はいくら、服や趣味にいくら、家族を持つなら子育て費用はどうする、老後の備えは月いくら積み立てる、緊急時のためにいくら手元に置く。これを順番に書き出していくと、きりのいい数字が、ぐらぐら揺れはじめます。500万円じゃ全然足りないかもしれませんし、案外300万円でも足りるかもしれません。いま思い描いている生活が、いくらで成立するかは、一度真剣に書き出してみないとわからない、というのが、僕の感覚です。書き出してみると、面白いことが起きることがあります。多くの場合、その金額は、当人が「楽に生きるために避けようとしていた仕事」でも、十分に到達できる、ということに気がつくんです。

ここで、僕の話を少しだけ書きます。僕は博士課程に進みました。博士課程の薄給は、想像してもらえると思いますが、本当に薄いです。学振(日本学術振興会の特別研究員、という制度)に採択されると月20万くらい出ますが、それ以外の人は学費を払いながら勉強しているか、夜中まで非常勤やバイトをしているのが現実です。生活水準として、決して「楽」ではありませんでした。その後、ポスドクになりました。ポスドクの給料も、職業によっては悪くない数字に見えますが、任期付き・賞与なし・退職金なしの世界なので、額面そのままに使えるわけではありません。長期の住宅ローンも組みにくい。任期なしの助教ポジション(任期付きのポスドクと違って、定年まで働ける安定したポジションです)を取って、ようやく「家族と暮らす生活基盤」のようなものが、自分のなかで具体性を持ち始めました。

そのとき、僕がやったのは、「いまから定年までに、いくら稼ぐ必要があるか」を、家族構成と希望のライフプランから逆算する、ということでした。これをやってみると、いくつかわかることがあります。ひとつは、必要な額は人によってぜんぜん違う、ということ。もうひとつは、いくらか積み立て続けると複利で大きく育つ、という仕組みは、誰にとっても同じだ、ということ。早く始めるほど複利の効きが大きくなるので、早く始めるだけで、必要な「稼ぐ力」のハードルは、わりと下がります。

参考までに、仮の計算をしてみます。月3万円を年利7%(一年で7%増えると仮定する場合の率)で30年間積み立てた場合、自分が投じたお金の合計は約1,080万円、複利が効いた合計はおよそ3,500万円くらいになります。年利7%は、過去のグローバル株式の平均リターンを大きめに見積もった数字なので、下振れもあります。だから「絶対そうなる」とは言いません。それでも、複利というのはこのオーダーで効くらしい、という事実は、知っておいて損はないと思います。僕がここで言いたいのは「投資をしてください」ではなくて、「楽に生きる」のために必要な金額を、もし複利の効きを織り込んで計算したら、いま想像しているより低い額で済む可能性がある、ということだけです。月3万円を30年積めば3,500万円になる、という世界では、「ものすごく稼がないと生きていけない」という前提のいくつかが、グラッと揺れるはずです。

ここまで来て、最初の問いに、もう一度戻ります。「楽に生きたい、と言いましたよね。コンビニ店員ではダメな理由は何でしょうか」。もう一度、自分のなかに問いかけてみてもらえると嬉しいです。ダメと思った理由が「給料が足りない」だったなら、それは具体的にいくら足りないのか。家族を持つため? いくら? 趣味のため? いくら? 老後のため? それなら複利の積み立てで埋まる部分はないでしょうか。ダメと思った理由が「世間体が」だったなら、それは誰の世間体なのか。親、友人、SNSのフォロワー、それとも自分のなかの誰か。その世間体は、30年後に振り返ったときにも、まだ大事だと思える種類のものでしょうか。ダメと思った理由が「楽しくなさそう」だったなら、それは確かに大事な感覚です。それでも、楽しさを保証してくれる職業はそんなに多くないと思います。むしろ、楽しいかどうかは、職業ではなくて、その仕事に対する自分の関わり方で決まる、というのが、僕がいろんな人を見てきた範囲での印象です。コンビニ店員でも、業務改善を楽しんでいる人を、僕は何人か見てきましたし、世間的に「立派」な職業についていて毎日が地獄だ、という人もたくさん見てきました。

「楽に生きたい」という言葉は、答えではなくて、問いの始まりにすぎないんじゃないかな、と僕は思っています。「楽に生きたい」と言ったら、そこからが本番です。何が楽で、何が楽でないのか。いくら必要で、いくらは要らないのか。何を「自分にとっての楽」だと感じるのか。これらは、誰もあなたに答えを渡してくれません。誰かに渡してもらった「楽」は、たぶんあなたの楽ではない、と僕は思っています。

ついでに、もう一段だけ、別の角度の問いを書いておきます。学生さんのなかには、「いやそんな低い金額で満足できないっす、もっと稼ぎたいっす」と言う人もいます。これも素直な希望で、僕は否定しません。ただ、もしそうだとしたら、また次の問いが出てきます。「では、いくらまでなら稼ぎたいんでしょうか」。「無限に」と答える人もいます。それでもいいです。じゃあ、「無限に欲しいのなら、無限に稼げる能力を、いま身につけに行かない理由は何でしょうか」。これがまた、答えに詰まる問いです。「無限に欲しい」と「無限に稼ぐ努力をする」のあいだには、おそろしい距離があります。距離があることに気づかないうちは、欲しがっているふりをしているだけで、本当には欲しがっていない、ということになるかもしれません。「楽に生きたい」と「無限に稼ぎたい」は、一見正反対に見える希望ですが、両方とも、「自分でその希望をほどいているか」という共通の問いに、たどりついていきます。ほどけたら、それは具体的な計画に翻訳できます。翻訳できれば、いまから何をやるかが決まります。決まれば、複利が効きはじめます。これは大事な順番だと、僕は思っています。逆向きにはたぶん進みません。

最後に、もう一回だけ、はっきり書いておきます。僕は、あなたがコンビニ店員になることを否定もしないし、推奨もしません。無限に稼ぐ能力を身につけることも、否定しないし、推奨しません。どの結論でも構わないんです。僕がこの章でしたかったのは、あなたのなかにある「漠然とした楽さの希望」と「漠然とした仕事の階段」が、自分でも持っていることに気づかないままセットで動いている、その状態を、いったんほどいてみることでした。ほどいたあと、「やっぱりコンビニ店員は嫌だな」と思うなら、それでいいんです。その代わり、嫌だと思う理由を、自分の言葉で言えるようになっていてもらえると嬉しいです。「いやー、なんとなく」じゃなく、「私は◯◯が欲しくて、それには年収◯◯万円が必要で、コンビニ店員ではそこに届かないから、選ばない」と言えれば、それはあなたが選んだ結論になります。誰かが用意した正解の照合ではなく、あなた自身の選択になっている、という違いがあります。選択にしたうえで、別の道を選ぶのは、まったく構わないと思います。むしろ、それが、この章で僕がやりたかったことです。

ついでに、もうひとつだけ。学生さんのなかに「めちゃ稼ぎたいわけじゃないんすけど、でもふつうの暮らしがしたいんで」みたいなことを言う人がいます。これは素直な希望で、僕も否定はしません。ただ、「ふつうの暮らし」というのは、誰が定義したものなんだろう、というのは、ちょっと聞いてみたくなる問いです。たぶん、どこかで誰かが定義したそれを、あなたは引き取って、自分の希望のラベルとして貼っている。引き取ったラベルだったら、それを一度引きはがして、自分の言葉で書き直してみる余地があるかもしれません。書き直すとなると、たぶん詰まります。僕だって、20歳の頃の自分にこの作業をやらせたら、たぶん詰まりまくっていたはずです。その作業は本書ぜんぶをかけてやろうとしている作業なので、いますぐ詰まらなくてもいいです。ただ、「ふつう」を疑うところからしか、あなたの選択は始まらないんじゃないか、というのは、書いておきたかったことのひとつです。

最後に、念のため書いておきます。この章で書いた「お金」「時間」「可処分認知資源」のどれもが、「楽」の中身を構成する通貨です。どれを優先するかは、人によって違います。お金を最優先したい人もいますし、時間を最優先したい人もいますし、認知資源を最優先したい人もいます。優先順位は、ライフステージで変わりますし、固有の輪郭でも変わります。だから、唯一の正解はありません。僕がここで書きたかったのは、「楽に生きたい」と一言で済ませてしまうと、自分がどの通貨を欲しがっているのかが、自分でも見えなくなってしまう、ということでした。みっつの通貨に分けて見るだけで、自分の希望の形が、ちょっとくっきりしてくることがあります。それで充分だと思います。