第4章 動こうとして、足が止まるとき

学生さんと話していると、ときどき、こういう話が出ます。「やってみたいことはあるんですけど、なんとなく動けないんですよね」。やる気がないわけじゃない。やりたいと思っている。なのに、最初の一歩が出ない。動こうとして、ふっと止まる。これは、たぶん多くの人に心当たりのある感覚で、僕にも、種類は違えど、ときどき訪れる感覚です。教員になっても、研究者になっても、消えません。自分が書きたいと思っているはずの論文の原稿の前で、なぜか今日は手がつかない、というのは、いまでもよくあります。やりたいことだけが残っている日に動けない、というのは、人類のかなりの割合に共通する標準仕様なんじゃないかな、と感じています。

それで、なぜ止まるのか、内側を覗いてみることが、ときどきあります。学生さんに「なんで止まったの?」と聞いてみたり、自分自身が止まったときに、その理由を辿ってみたり。すると、面白いことに、出てくる理由はだいたい同じような形をしているんです。「恥ずかしいから」「人にどう思われるか分からないから」「まだちゃんとできないから」「完璧じゃないから」「時間がないから」「お金がないから」「自分には才能がないから」。書き並べてみて気づくのは、これらの理由がどれも、自分の外側にある何かを指している、ということです。「人」「ちゃんと」「時間」「お金」「才能」。主語が外にあって、自分はそれに反応しているだけ、という形をしています。だから動けない、というのは、ある意味で自然な流れに見えます。

ただ、もう少し近くで見てみると、ちょっと違う景色が見えてくることがあります。たとえば、「人にどう思われるか」と気にしているときの「人」って、誰だろう、と聞いてみることがあるんです。具体的に名前が挙がる人もいれば、「うーん、世間というか……」と言葉に詰まる人もいます。世間、というのは、考えてみると、輪郭のない相手です。誰でもない。誰でもないのに、その視線を意識して動けないのは、相手のいない試合に出続けているのに似ているのかもしれません。

具体的に名前が挙がった場合でも、その人が5年後、10年後にも自分の人生のなかにいる人なのか、と少しだけ考えてみることがあります。クラスメイトの誰か、サークルの先輩、バイト先の同僚、SNSで見かけるフォロワーの誰か。いまの環境で会っている人の多くは、環境が変われば自然に会わなくなる人たちです。これは悪い意味ではなく、環境ベースの関係というのは、誰の人生にもあるごくふつうのものです。一方で、環境が変わっても残る人、というのは、人生のなかで片手で数えられるくらい、たぶんずっと少ない。恥ずかしくて動けない、と感じているとき、その視線の主は、たいてい、いずれ会わなくなる側の人に含まれている、というのが、僕の経験から見える景色です。3年後にはもう会わない人のために、いまの自分のやりたいことをセーブする。長い目で見ると、ちょっと割に合わない取引なのかもしれません。

それから、長く残る人というのは、最初から「この人が長く残る」と分かっているわけではありません。時間が経って、環境が変わっても、結果的に残った人だけが、長く残る人です。だから、いまの段階で「誰が長く残る人か」を判定することは、原理的にできない。判定できるのは、ずっとあとで振り返ったときだけです。だとすると、いま「恥ずかしいから動かない」を続けると、何が起きるかは、なんとなく見えてくる気がします。動かないと、自分が何を面白いと思っているか、何をやろうとする人間かが、周りに伝わらない。伝わらないと、「それ面白いね」と言ってくれる人も見つからない。長く残る人というのは、おそらく、自分の何かを面白がってくれた人のなかから、結果的に残ってくる人です。動くことそのものが、自分に合う人を浮かび上がらせる装置になっている、というほうが近いのかもしれません。

「ちゃんとできないから」「完璧じゃないから」というのも、よく聞く理由です。これも、誰に「ちゃんと」を要求されているのかを見にいくと、たいてい、自分自身です。親や先生から「ちゃんとやれ」と言われた経験は確かにあるとしても、その声を、いまの自分の頭のなかで再生し続けているのは、自分のほう。完璧の基準を高く設定すればするほど、最初の一歩は重くなります。これは経験則として、だいたいそうなる、という感覚があります。僕の見ている範囲では、最初から完璧を目指した人より、粗くてもいいから始めた人のほうが、結果的に質も上がっていくことが多い。完璧を目指すと最初の一歩が出ず、粗くていいと思うと出るからです。改善の余地というのは、出した一歩のうえにしか見えてこないので、出さないままだと、改善も起きません。完璧と粗さの両極を行ったり来たりした学生さんを何人か見てきましたが、最後に何か形にしたのは、たいてい後者でした。

「時間がない」というのもあります。これは少し別の角度から眺めてみたい言葉です。前章で「物理時間」と「認知資源」は別の通貨だ、と書きましたが、それを踏まえたうえで、ここでの「時間」を、もう一段ほどいてみます。

物理時間として、自由に使える30分が週に一度もない、という人は、ほとんどいないと思います。授業や仕事の時間を引いて、寝る時間と食事を引いて、それでもまだ、スマホを眺めている時間、ぼーっとしている時間、寝る前にだらだらしている時間が残っているはずです。それを足し合わせると、もっとずっと長い時間が出てきます。次に、燃料が残っている時間。これは物理時間より、たしかに少ない。一日の終わりの30分は、たいてい燃料切れの30分で、難しいことには使えません。でも、燃料が残っている時間(朝、休日の午前、午後の早い時間あたり)が、週にひとつも存在しない、というところまでは、たぶん追い詰められていない。

そう考えてみると、「時間がない」と言うときに本当に起きていることは、たいてい三段階目の話、つまり、燃料が残っている時間を、いま考えていることに使う優先順位がついていない、というあたりにあるんじゃないか、というのが、率直な感覚です。物理時間として「ない」のではなく、燃料が残っている時間として「ない」のでもなく、その燃料の優先送り先として「ない」、ということです。

それに、何かを始めるためのコストは、いまの時代、昔と比べものにならないくらい下がっています。本は図書館で借りられますし、学びたいことの解説は動画でいくらでも見られますし、何かを作りたければ無料のツールがいくつもあるし、AI に聞けば最初のヒントももらえます。お金がないから始められない、という言葉の輪郭も、昔とはかなり違ってきている、というのが、教える側に回って学生さんを見ているときに、よく感じることです。これは「だから時間を作りなさい」と言いたいわけではなくて、「時間がない」と言いそうになったときに、もう一段だけ、本当に時間が無いのか、それとも、いまの自分のなかで優先順位が下のほうにあるだけか、と自分に問いかけてみる余地があるかもしれない、というだけの話です。優先順位が下にあるなら、それはそれで構いません。やらない、という選択をしている、というだけのことです。

ここまで並べてきた言葉を、もう一度俯瞰してみると、ひとつ気づくことがあります。「人の目」「ちゃんと」「時間がない」「お金がない」。これらはどれも、動けない理由を自分の外側に置いている形をしている、ということです。主語が外にあって、自分は受け身。

ここで、もう少し時間を遡ってみると、ちょっと不思議なことに気づきます。いまの自分の状況を、過去まで辿ってみると、その状況は、過去の自分の選択、あるいは選ばなかったことの、積み重ねでできている、ということが、けっこう多いんです。どこに進学するか選んだ。何のサークルに入るか選んだ。誰と過ごすか選んだ。スマホを開いた、開かなかった。やりたいことを始めた、始めなかった。選ばなかった、というのも、ひとつの選択です。

これは、自分を責めるための観察ではありません。よく見てみると、ちょっと違う方向の話になります。いまの状況が自分の選択の結果なら、これからの状況も、これからの自分の選択で変えられる、ということになるからです。逆に、「仕方がない、こういう環境だから」と現状を自分の外側に置いてしまうと、これからの変化も、自分の外側にしか期待できなくなる。誰かが変えてくれるのを待つ、運がよくなるのを待つ、という状態です。長い目で見ると、これはけっこうしんどい立ち位置のように、僕には見えます。

「自分の選択として、いまここにいる」と認めるのは、最初は少し痛いかもしれません。それでも、認めたあとに、これからの自分も自分で選べる、という別の感覚がついてくることがあります。これは、「あなたが悪い」と言うための観察ではなく、「あなたの手の中に、これからの起点がある」と気づくための観察、というほうが近いと、僕は思っています。

「恥ずかしい」も「ちゃんと」も「時間がない」も、それ自体を捨てるべきだ、という話ではありません。どれも、人間として大事な感覚です。ただ、それが重しになって動けなくなっているときは、いったん下ろしてみる、というのは、わりと現実的な選択肢だと思うんです。永遠に捨てる必要はありません。動き出したあとに、必要なら、また持ち直せばいい。両手に重い荷物を持って走れる人は、たぶんいません。走るときは、いったん下ろす。走り出したら、あとから取りに戻ればいい。重しは、逃げません。

ここまでの話を、プロローグで書いた庭の比喩に重ねておきます。「動けない」というのは、たぶん、庭に天気の悪い日があるのと、構造としては似ています。雨の日に、庭仕事はなかなか捗りません。これは庭主が悪いわけでも、庭が悪いわけでもなくて、たぶんそういう天気の日だ、というだけのことです。動けない日が続いたときに、自分を責めはじめる前に、ちょっとだけ思い出してみてもらえると嬉しいです。同時に、もし雨の日が長く続くなら、それは天気の問題というより、庭の構造のほうを少し見直す合図かもしれません。雨が降っても水が逃げる水路があるか、屋根のかかった作業場があるか、そういう「天気が悪くても何かが進む構造」を、自分のために組み直すタイミングが来ている、ということです。