第8章 自分の頭で考え、自分の手で作る
この章では、AI の話をします。たぶん、この本のなかで、いちばん同時代的な章になります。書いているのは2026年で、生成AI(ChatGPT のような対話AI、コードを書いてくれる AI、画像を作る AI、論文を要約してくれる AI など)は、大学生の日常に深く入り込んでいます。レポートを書く、コードを書く、発表のスライドを作る、文献を要約する。何ならゼミの予習も、AI に質問しながらやれます。これが当たり前になった時代に、僕は大学教員をしています。
AI 礼賛を書くつもりはありません。AI 脅威論を書くつもりもありません。両方とも、もう世の中に溢れていますし、両方とも、大学生の生活実感から少し遠いように、僕には見えます。僕がここで書きたいのは、もうちょっと地に足のついた話です。AI を使って学ぶ、というのは、いったいどういうことなのか。あなたが今日 ChatGPT を開いてレポートの骨子を作ろうとしたとき、何が起きていて、それはあなたの学びにどう効いて(あるいは、どう効かないで)いるのか、という話です。
入り口として、ひとつのたとえを置かせてください。仕事のなかには、マネージャーと呼ばれる役割と、ディレクターと呼ばれる役割があります。マネージャーの仕事は、誰に何をやってもらうかを決めることです。スケジュールを組み、タスクを振り、進捗を確認し、調整をする。マネージャー自身が「中身」を作る必要は、必ずしもありません。チームのメンバーが作ってくれた成果物を、組み合わせて、納品する。一方、ディレクターの仕事は、何をどう作るかを決めることです。何を本質的に伝えたいか、どんな手触りで、どんな順序で、どんな仕上がりにしたいか。これを判断するのがディレクターです。判断するには、中身がわかっていないといけません。料理のディレクターは、料理が分からないと務まりません。映像のディレクターは、映像言語が分からないと務まりません。研究のディレクター(研究室の責任者で、英語の頭文字をとって PI と呼ばれます)は、研究の中身がわからないと務まりません。マネージャーとディレクターは、両立することもありますが、別々に持つこともあります。仕事として、必要な能力が違います。
このたとえを、AI との関係に持ち込んでみると、AI に何かをやらせるとき、人はマネージャーかディレクターか、どちらかになっています。AI にレポートを書かせて、出てきた文章を読まずに提出する人は、マネージャー(しかもけっこう雑な)です。スケジュールを組んで、タスクを振った。終わった。提出した。中身はわからない。中身がわからないので、出てきたものが本当にそのレポート課題に答えているかどうか、判定できません。仮にそれが0点だったとしても、何が悪かったのかも分かりません。一方で、AI にレポートの骨子を書かせて、それを読んで、「ここの主張は弱い」「ここはもう一段具体例が要る」「この論理の飛躍はおかしい」と判断して、修正指示を出して、最終的に自分の言葉で書き直す人は、ディレクターです。中身を分かっているから、出てきたものを評価できます。評価できるから、改善の方向を指示できます。AI 時代に必要とされる能力は、AI を使いこなす力でもなければ、AI に勝つ力でもなく、ディレクターになるための基礎力なんじゃないか、というのが、僕が大学教員として学生さんに伝えたい、いちばんシンプルな話です。
ディレクターは中身が分かっていないとできない、と書きましたが、中身が分かるようになるには、どうしたらいいんでしょうか。これは身も蓋もない答えになりますが、自分で考えて、自分で作るしかありません。最初から AI に書かせて、出てきた文章を読んで、それで分かった気になる人がいます。これは、ほぼ確実に分かっていません。読むと書くは、認知的にぜんぜん違う作業です。読むときには、書き手が組み立てた論理を追いかけているだけで、自分で組み立てているわけではない。組み立ての練習をしないと、組み立てる力はつきません。僕の経験で言うと、読むのと書くのとでは、得るものの量が、桁違いに違います。本を10冊読むだけの人と、本を1冊しか読んでいないけれど、その内容について自分の言葉で何かを書いてみた人。たぶん後者のほうが、その本について深く分かっています。読むだけだと、書き手が「これくらいは分かるだろう」と省略している判断が見えません。自分が書こうとして、初めてその判断がのしかかってきます。
AI に作業を任せると、これと同じ構造が起きます。AI が組み立ててくれた成果物を読むだけだと、AI が暗黙に行なった判断が見えません。判断が見えなければ、自分で判断する練習ができません。練習しなければ、判断力は育ちません。育たなければ、ディレクターにはなれない、ということになります。具体的に言うと、AI にレポートを書かせて出すだけでは、あなたのレポートを書く力は、永遠に育ちません。これは別に道徳の話ではなく、認知的な構造の話です。書く力は書くことでしか育たない、というのは、人類が何百年もかけて確認してきた、わりと頑健な事実だと思います。
ただ、ここから少し別の話が始まります。AI を使ってもいい、ただし使い方による、という話です。学びの研究のなかでは、学習者が情報に対してどれくらい能動的に関わっているかで、定着の量が桁違いに変わる、ということが、繰り返し確かめられています。ざっくり書くと、ただ受け取るだけ、よりも、ノートを取るほうが定着する。ノートを取るだけよりも、自分の言葉で要約したり、関連を図にしたりするほうが、もっと定着する。ひとりで要約するだけよりも、誰かと議論しながら考えたほうが、さらに定着する。同じ「学ぶ」という行為のなかでも、能動性の段階によって効きが違う、ということです。
これを AI との付き合い方に当てはめてみます。AI にレポートを書かせて、それをそのまま提出する、という使い方は、もう「学ぶ」のスケールから外れています。受け身ですらありません。「やっていない」に近い。AI が出した文章を読んで、自分の言葉で何箇所か書き直す、というのは、ノートを取るくらいの能動性になります。AI に質問を投げて、出てきた答えを材料にして、自分の言葉で要約や図を作るところまで進むと、自分の言葉で再構成しているので、もう一段、能動性が上がります。さらに、AI と対話しながら、自分の理解の穴を見つけ、「ここを別の角度から説明して」と指示し、それを踏まえて自分で組み直す、というところまでくると、議論しながら考える、というのに近いことが、AI 相手でも起きます。同じ AI を使っていても、使い方によって、能動性の段階がぜんぜん違う。これが、僕がいちばん強調したいポイントです。「AI を使うか、使わないか」は、ほぼ意味のない問いで、問うべきは、AI を使って、自分はどのくらい能動的に動いているか、ということです。
AI という道具の性質について、もう少しだけ。AI は、わりと典型的な、思考の外部化装置です。覚えておくのが大変な情報を、覚えなくてよくする。資料を要約するのに何時間もかけずに、最初の骨子だけ取り出してくる。コードのよくある書き方を、毎回ゼロから書かずに済ませる。これらは、外部化することで、自分の脳のなかに残しておく必要がなくなった分の燃料を、別のことに振り向けられるようにする、という意味では、ものすごく強力な仕組みです。
ただし、外部化のなかでも、AI に固有の、ちょっとややこしいところがあります。やることリストを紙に書く、カレンダーに予定を入れる、という種類の外部化は、書いた本人が「自分が何を外に出したか」を分かっています。だから、必要なときに、外部化したものを取り戻して使えます。AI に外部化する場合は、これが少し違います。AI に「考えてもらった」内容は、自分が何を考えなかったかを、自分でも見えにくくします。「考えなかったこと」自体を、AI が代行してくれているからです。これは、紙のメモにはない種類の外部化で、注意して扱わないと、自分の思考のうちのどの部分が AI に置き換わっているのかが、自分でも分からないまま日々が過ぎる、ということが起きます。
だから、AI を道具として使うときには、ひとつだけ、自分への問いを置いておくとよさそうです。「これは、自分が考えなくていいことを AI に外部化しているのか、それとも、自分が考えるべきことまで AI に外部化してしまっているのか」、という問いです。前者なら、たぶん良い使い方です。後者は、ディレクターの仕事の中身を、AI に明け渡しはじめている、ということになります。これは、その瞬間にはなかなか気づきにくいんですが、半年くらい経って、自分の頭で何かを組み立てる場面が来たときに、急に「あれ、自分、考えるのって、こんなに重かったっけ」という形で気づくことになります。あなたの頭で組み立てる筋力が、AI に置き換わっているあいだに、ちょっとずつ落ちていた、というやつです。
僕がこれから運営する研究室では、AI 利用を禁止しないつもりです。むしろ「使ってください」と言うつもりでいます。ただし、使い方には条件をつけたいと思っています。たとえば、ゼミで論文を読んで紹介するとき、AI に論文の要約を作らせること自体は禁止しないつもりです。でも、その要約を、自分の言葉で書き直さずに発表するのは、禁止にしたい。AI 要約を読み上げているだけだとしたら、発表者の理解は深まりませんし、聞いている学生さんも発表者の理解を測ることができません。ゼミの時間が、誰の学びにもなりません。研究のコーディングで AI にコードを書かせるのは、推奨したいと思っています。これは作業効率の話で、書ける部分は書かせたほうがいい。ただし、AI が書いたコードを、行ごとに読んで、何が起きているかを自分の言葉で説明できる状態までは、自分でやってもらうつもりです。説明できないコードを、研究の論文に乗せるのは、研究倫理上もアウトですし、何より、書いた本人がディレクターになれていません。
授業のほうも、質問することへの加点を、意識的に組み込めないかな、と考えています。AI に質問するのは、いいことです。それでも、教員にしか聞けない質問が、世の中にはあります。AI が答えられないこと(たとえば、研究室の文化、僕の指導スタイルの裏側、論文を書くときの政治的判断)は、AI には書かれていません。直接聞きにこないと分かりません。「先生、これ AI に聞いても分かんなかったんですけど」と来てくれる学生さんがいたとしたら、その人はすでにディレクターの素質を持ち始めていると思います。AI に聞ける質問とそうでない質問の区別がついている、ということだからです。区別がつくのは、自分が何を分かっていて、何を分かっていないかが、自分で見えているから、です。
学生のあなたが、もし「AI に聞けば全部済む」と感じているとしたら、それはたぶん、AI に聞けない種類の問いを作る練習を、まだしていないからだと思います。AI に聞けない問いというのは、たとえば「先生のいまの研究テーマは、5年前と比べて、何がどう変わりましたか」「先生が学部時代に、いまの自分から見て『やっておけばよかった』と思うことは何ですか」「先生の指導スタイルで、自分に合いそうなところと、合わなさそうなところを、率直に言ってもらえますか」、こういうものです。AI には書かれていない情報で、教員という具体的な人間が、固有の経験のなかで形成してきた感覚を聞き出さないと出てきません。こういう問いを作れるようになると、AI と人間の役割分担が、自分の手の中で扱えるようになりはじめます。これは、ディレクターの基本動作です。誰(何)に、何を聞くかを判断する、というのは、ディレクターの仕事そのものです。
ここで、元本の話とつなげておきます。ディレクターになるための元本は、これから積めばいい。元本は、自分で考えて、自分で作った経験の積み重ねです。自分で書いたレポート(AI に書かせていない部分)、自分で組み立てたコード(AI に書かせたコードを、行ごとに読み解いて、改造した経験を含む)、自分で立てた問い(誰にも頼まれていない問い)、自分で出した結論(誰かの正解の照合じゃない結論)、自分で主導した議論(黙って聞いていただけじゃない議論)。これらが、ディレクターの元本になっていきます。逆に、AI が代行できる作業を AI に丸投げするだけの時間は、あなたの元本にはほぼ積まれません。代行された作業の経験値は、AI 側に積まれています(正確には、AI モデルの開発者側に積まれています)。あなたのなかには積まれない。これは、AI を使わないでください、という話ではなく、使うときに、何があなたの側に積まれるかを意識しよう、というだけの話です。同じ AI を使っても、元本に積まれる量がぜんぜん違う、というのが、複利が効きはじめる前のフェーズで、決定的に重要な違いになります。
最後に、これを「義務」っぽく書きたくないので、ちょっとトーンを変えて書いておきます。僕は、自分の頭で考えて、自分の手で何かを作るのは、本来、めちゃくちゃ楽しいことだと思っています。レポートを自分の言葉で組み立てるのは、骨組みを設計するパズルです。コードを自分で書くのは、機械に話しかけて、機械が動く瞬間の小さな魔法です。問いを自分で立てるのは、世界をひとつだけ自分の側に引っ張る瞬間です。プレゼンを自分で組むのは、知らない人の頭のなかに、自分の考えを移植する遊びです。AI に任せると、この瞬間がぜんぶ、AI 側で起きます。あなたの側には、できあがったものを受け取る、というわりと薄い体験だけが残ります。これは長期的に見ると、ちょっと寂しい。僕がいま、研究者という仕事をやっていて、本当に楽しいと思える瞬間は、自分の頭で考えて、自分の手で作って、それが動いた瞬間に集中しています。論文の構成を自分で組み直したら、いままで見えなかった主張の形が立ち上がってきた瞬間。コードのバグの原因を、半日考えた末に自分で突き止めた瞬間。学生さんが「先生、これってこういうことですか?」と聞いてきた問いに、僕の脳が初めて気づいた瞬間。これらは、AI が代行してくれません。AI が代行できないからこそ、そこに僕の喜びがあります。あなたの喜びの形は、僕とは違うかもしれません。それでいいです。ただ、AI が代行できないところに、あなたの楽しさが残っている、という構造は、たぶん多くの人に共通している気がします。AI を、あなたの楽しさを奪う相手として使うか、楽しさを残してくれる相棒として使うか。これも、あなたが決めることです。僕は、後者で使ってもらえると嬉しいなと思っています。