第10章 仲間という構造

仲間がいるかいないかと、自分が何かをやれるかやれないかは、ふつうは別の問題として扱われます。意志は個人のなかにあるものだ、と前提されているからです。これが、観察してみると、わりと違っています。仲間というのは、意志に頼らないための仕組みの、もうひとつの形として、驚くほど強力に機能します。仲間は、意志の代わりに動いてくれる装置になりうる、ということです。

僕の話をすると、学生のころに研究を続けられた理由は、半分くらいは仲間の力でした。研究室の同期や先輩、後輩が深夜まで作業している空気のなかで、自分も机に向かいました。逆に、自分が苦戦している夜に、誰かが横でホワイトボードに一緒に書きながら考えてくれた時間もありました。意志の総量で考えれば、当時の僕にはあれだけの量をひとりで動かす燃料はありませんでした。それでも研究は前に進んでいた。これは、仲間が燃料の一部を肩代わりしてくれていたから、というのが、いまの僕の読み方です。

実は、これより前の時期にも、似たことを経験していました。中学から高校にかけて、FPS のチームを組んでいたころです。夜中の試合で、自分の調子が悪くて勝てない日があります。それでも、味方の誰かが自分のぶんも背負って動いてくれることがある。逆に、誰かが調子を落とした日に、自分が引っ張る役に回る日もある。チームというのは、全員が常にトップで動いているわけではなくて、誰かが落ちた日を、ほかのメンバーが少しずつ補っていく、という形で進みます。これが分かると、自分のコンディションを完璧に整えなければ、というプレッシャーが、ちょっと下がります。仲間がいる、というのは、調子を平均化してくれる装置を持っている、ということでもある。これを、僕は研究の前に、ゲームで覚えました。

仲間が機能する理由は、いくつか観察できます。ひとつは、燃料を貸し借りできる、ということ。ひとりで動いていると、自分の燃料が切れた瞬間に止まります。仲間がいると、自分が切れた日でも、仲間が引っ張ってくれます。逆に、仲間が切れた日には、自分が引っ張る側になります。資源がふたり(あるいは集団)で平均化される、ということが起きるんです。ひとりで持つには大きすぎる課題でも、誰かと一緒なら、運べる。

もうひとつは、自分のなかの「ふつう」が、勝手に更新される、ということ。何が当たり前で、何が標準か、というのは、所属している集団によって、ほぼ自動的に決まります。研究を毎日やるのが当たり前の集団に入ると、研究を毎日やる自分が当たり前になります。研究をしない集団のなかにいると、研究をしない自分のほうが自然になります。これは、個人の意志の問題と、ほぼ無関係に起きます。だから、自分のなりたい姿があるとき、そういう生き方をしている人たちのそばに身を置くほうが、意志でなんとかしようとするよりも、ずっと効率がいい。仲間というのは、意志に頼らずに済ませるための、社会的な仕組みなんだ、というふうに見ることができます。

みっつめは、考えごとが、相手を通して整理される、ということ。ひとりで全部抱えるよりも、誰かに説明しながら考えたほうが、思考が遠くまで行きます。説明するために整理する過程で、自分のなかで何かが揃います。アイデアの種をもらえます。逆に、自分の盲点を指摘してもらえます。これは個人の脳のスペックを超える作業を可能にする、というほうが近いです。

よっつめは、これがたぶんいちばん強いんですが、仲間が「強制力」として働く、ということ。授業のある朝や、絶対に行かなきゃいけない用事のある朝は、わりとすんなり起きられるのに、何の予定もない休みの朝は、起きたいと思っているのに起きられない、ということがよくあります。これは、自分の脳が、無意識のうちに「これを破ったら、誰にどれくらい迷惑がかかるか/心理的にどれくらい重いか」を推し量って、起きるかどうかを決めているからだと思います。意志の強い弱いではなく、その日の予定の心理的な重さで、動ける動けないが分かれている、ということです。これを逆向きに使うと、続けたい活動を、絶対にすっぽかせない誰かとの約束のなかに埋め込んでおく、というのが、わりと強力な仕組みになります。毎週同じ時間に同期と勉強会を入れる、誰かに「明日の朝までにこれを送ります」と宣言する、朝のイベントを定例化する、というあたりです。とくに、「日常的に迷惑をかけてはいけないような相手」が混ざっていると、自分の脳が「破るわけにはいかない」と判定して、強制力が大きく働きます。意志を強くする練習ではなくて、意志がなくても動く社会的な構造を組む、というのが、ここでも基本姿勢です。

ただし、すべての仲間が同じように機能するわけではありません。これは観察として書いておきます。仲間の質、という観点でいうと、僕の経験では、「同じことをやっている人」よりも「同じ志向性を持つ人」のほうが、長く残ります。同じ研究室にいる、同じ大学にいる、同じバイト先にいる、というのは、表層の共通点で、これは進路や生活が変わると消えやすい。一方で、「面白いと感じる方向」「許せないことの種類」「大事にしたい時間の使い方」みたいな、もう少し深い層の共通点で繋がっている人とは、表面の接点が変わっても、関係が残ります。学生時代の仲間が、その後も人生のなかで残るかどうかは、この深さの違いで、けっこう決まる気がしています。

ここで、第2章で書いた偏差値の話と、すこし接続しておきます。偏差値というのは、ある時点の学力を撮ったスナップショットでしたが、別の側面もあって、「ある特定の能力で、似た仲間を見つけやすくするツール」としても機能しています。偏差値が高い大学には、少なくとも学力テストで上のほうに来る、という側面では、似た能力を持った学生が集まります。同質な仲間と過ごせる環境を、一発で手に入れられる、という意味では、偏差値というツールはちゃんと機能していて、だから社会的にも流行り続けているし、けっこう大事なツールでもある、ということになります。仲間という観点から見ても、偏差値は無意味じゃない。

ただし、偏差値が測れる「側面」は、学力テストで点を取る能力、それだけです。たとえば僕の場合、9歳から積んできたサーバー運営の経験や、高校のころに稼ぎ始めたロゴデザインや、FPS でチームを組んできた能力は、偏差値では一切測られませんでした。これらの側面で同質な仲間を見つけたかったら、偏差値による並べ替えは、何の役にも立ちません。学校が並べてくれた仲間ではなくて、自分でその種の仲間が集まる場所に出かけていく必要がありました。実際、僕の中学時代の FPS のチームメイトは、学校の中ではなく、ネット上で知り合った人たちでした。

つまり、偏差値というのは「ある側面で似た仲間を集めるツール」としては優秀ですが、「あなたが本当に大事にしている側面で似た仲間を見つけるツール」としては、ぜんぜん足りていない可能性があります。学校が用意してくれた仲間で十分、と思える人はそれでいいです。一方で、自分の興味や能力が、学校が測る軸とはズレているな、と感じている人は、偏差値の並べ替えの外側に、自分で仲間を取りに行く必要があります。動かないと出会えない、というやつです。

それから、これは大学時代に固有の話なんですが、仲間を作るための条件が、人生のなかでいちばん揃っている時期が、大学時代だ、というのは、書いておかないとフェアじゃないと思います。物理的に同じ場所にいる時間が長い。生活の制約(家族、仕事の都合、地理的拘束)が比較的少ない。同じ年代で、似た悩みを抱えている。趣味や研究や勉強で、共通言語が生まれやすい。社会人になると、これらの条件は、ひとつずつ消えていきます。物理的距離ができ、家庭の都合ができ、利害関係が複雑になる。新しい仲間を作るハードルが、どんどん上がります。だから大学時代に作った仲間は、その後の人生で、ほぼ作り直しが効きません。これは過剰な美化でも、お説教でもなくて、構造的にそうなっている、ということです。

だから、大学時代の時間の使い方のなかで、「人と一緒に過ごす時間」を意図的に確保しておくのは、後で取り返しのつかない種類の投資になります。研究室、ゼミ、バイト、サークル、何でもいいんですが、「同じ志向性を持っていそうな人」の近くにいる時間を、能動的に作る。声をかけて、一緒に何かをやる。これは恥ずかしい瞬間が混ざるかもしれませんが、構造として、効きます。

最後に、仲間にも裏側があります。仲間がいる、ということは、その仲間と離れたときに弱くなる、ということでもあります。これも経路依存性のひとつで、自分の動機の一部を仲間に預けている、ということでもあります。仲間が変わったり、関係が変わったりすると、自分の動き方も変わる。これは避けられないコストで、仲間を持つことの代償として受け入れることになります。だから、ひとつの集団に依存しすぎないこと。複数の仲間関係を、別々に持っておくこと。研究の仲間、趣味の仲間、長く続く幼馴染、最近できた新しい人。それぞれが別の機能を持っています。ひとつのところに預けすぎないこと。これは、仕組みでも仲間でも、同じ構造です。

仕組みは、自分のなかに作る構造でした。仲間は、自分の外、自分と他人のあいだに作る構造です。両方とも、意志に頼らないで日々を回すための装置で、両方とも、組んだあとに最適化された自分が育って、組み直しが必要になります。庭の比喩で言うと、仕組みは庭の中の構造で、仲間は隣の庭主との関係です。自分の庭の世話を、自分のペースで続けるためには、両方を、ちょっとずつ、組んでおくのがいいんじゃないかな、と思っています。